41◆大将軍

 黎基たちにとって最大の幸運は、謹丈が己の力を過信したことだろうか。

 結果として、秦一族を見限った兵がこちらに加算されたのだから。

 正直に言うと怒られそうだが、謹丈と昭甫は似ているのかもしれない。自らが手にした力を試したくなるところが。


 本来であれば戦など不向きなくせに、謹丈が兵を率いてやってきたのは、秘薬を試してみたかったからだという気がする。

 そこで下手を打ったわけだが、昭甫もまた、火薬を触っている時は生き生きとしており、盛大に使わせてくれる主君なら喜んで従いそうに思えてしまう。


 ただ、謹丈と昭甫の違いがあるとすれば、昭甫はあれでも恩は忘れないし、兵士は人だと思っている。むやみに傷つけたいわけではない。そこがわからない男なら、さすがに黎基も重用などできないのだから。


 こうして兵力を増したが、だからといって楽に勝てるわけではない。

 雷絃の父親、郭大将軍は京師みやこまでの道のどこかにいると推測される。あの厳めしい、よく日に焼けた顔を思い出し、黎基は眉根を寄せた。


 彼は真の武人であるが、それ故に変節をよしとしない。相手が親王だろうと息子であろうと容赦はしないだろう。彼をどう退けるのか、そこが最も頭の痛いところである。


 京師みやこまであと少しという平地に、郭大将軍は陣を敷いていた。


「参られましたな」


 口元に古い傷痕の残る顔。雷絃とは似ているが、それでも違うのは目つきだろう。雷絃は勇敢な武将ではあるが、根が優しい。

 一方、郭大将軍は戦好きであった。死と隣り合わせで生きてきて、それを誇っている。


「御目の御快癒、お慶び申し上げます。しかし、そのために野心を抱かれたのでしたら残念ですが」


 口元の引き攣れた古傷が、感情を読み取りにくくする。黎基は幼い頃からこの将軍が苦手だった。


 これまでの冷遇に対する復讐よりは野心の方がよいだろうか。黎基にとってはどちらでも構わなかった。どちらにせよ、行うことは同じだ。


「……これ以上、秦一族が政に関わっては国を傾ける。そうは思わぬか?」


 そこに目を瞑れるはずもない。貴妃の奢侈を許している父を、本当のところはどう思っているのだろうか。


「それは武人が考えることではございませんな。私はただ、陛下の盾であり、槍でございます」

「しかし――」


 黎基の言葉を、郭大将軍は遮った。


「信念を曲げられぬ者同士がぶつかるのは必定。いざ、御相手仕りまする」


 雷絃を見遣ると、戦だというのに血が滾るでもなく、ただ悲しい目をしていた。

 最高峰の武人である父は雷絃にとって偉大な存在だ。臆しているのとも違う、複雑な面持ちで口を開く。


「父上が陛下の盾であり、槍であると仰るように、私は殿下の盾であり、槍でございます。……しかしながら、民が疲弊しているというのに、これを考えるのは武人の役目ではないなどと、本当にお思いですか? それが諦観でないと? 父上は戦にて己の幕を引きたいのではございませんか?」


 穏やかな口調にも辛辣なものが混ざる。貂絃も兄の言葉に目を剥いていた。

 それに対し、郭大将軍は答えない。すべての雑念を振るい落とすように槍を薙いだ。


「――父上の御無念、御心中お察しします。しかし、我ら武人の意地に民をつき合わせるわけには参りません。今、この国には民が飢えず、健やかに過ごせる日々を与えてくれるお方が必要なのです。私はそれが殿下であると信じております」


 雷絃の信頼に応えられる自分であるのか、黎基は正直に言うならば不安が残る。

 黎基は廃太子となってから、それまでに受けていた教育から逸れたのだ。天子として民を治めるために必要なことを教わりきったとは言えない。


 盲目であるとしていたから、書物も与えられず、昭甫が入手したものを隠れて読むくらいで、後は自らが治める儀州の人々の話を聞き、何を求めているのか、何を不服とするのかを知ろうとした。人の話に耳を傾けることでしか学べなかったが、それが最も大事なことだと今でも考えている。


 民のために応えねばならないという思いがある。

 己は決して類まれな才を授かっているわけではない。だからこそ、過信はしない。


「ほざけ、この青二才が――」


 獣が唸るような声を郭大将軍は息子に向けたが、雷絃はやはり悲しそうにしか見えなかった。


「兄上にはなんとお伝えになったのですか?」


 それを雷絃が口にした時、郭大将軍の目が微かに揺らいだ気がした。そうして、口元がゆっくりと持ち上がる。


「あれは南方の鎮圧に向かわせた。それだけだ」


 京師みやこに兵を集中させぬため、黎基も出かけにはあちこちに噂を撒いた。しかし、そのきな臭いだけの噂を真に受け、郭大将軍ともあろう武人が嫡男を向かわせるとは考えにくい。


 だからこそ、雷絃もまた気づいたのだ。わざと兄を遠ざけ、この戦に加わらせなかったのだと。


 雷絃の兄、郭絃裕げんゆうは、黎基の剣術の師であった。

 郭将軍はすでに覚っている。いずれ訪れる黎基の御世のために彼を残した。

 そして、自らは主君ちちと共に去るつもりなのか。


 惜しい人材ではある。歴戦の猛者なのだ。それでも、郭大将軍を生きながらえさせ、それでいて京師みやこに入る術が黎基にはない。


 時を費やせばどうにかできたかもしれない。けれどそれをしたら、祥華の方は間に合わないかもしれない。願うことが多すぎて、すべては手に入らないのだ。

 とても、身を切られるほどに心苦しいけれど。


「殿下、父の想いをどうか受け取ってください」


 雷絃がそうつぶやいた。

 彼にとって、誰よりも尊敬する父だ。

 だからこそ、生かすために捕虜にするという辱めも、変節を求めることもしてくれるなと。


「……わかった」


 人とはどうしようもない生き物だとつくづく思う。

 己もまた、悲しいほどに愚かだ。


 この時、ドンッ、ドンッと戦鼓の音が鳴った。鳴らしたのは、開いた陣形の先にいる昭甫である。

 支度は整ったと。


「進軍する!」


 馬上で黎基は手綱を握り締め、高らかに声を上げた。

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