39◆決戦の前に
鶴翼は雷絃の馬に乗り、どう見てもただの子供にしか見えぬあどけない笑みを黎基に向ける。
「呂石様はちょっと焦っていたみたいですね。貴妃様が爛石様とばっかり会って、呂石様とはろくに顔を合わせてくれなくなってましたし」
「……秦呂石も爛石も、貴妃も私はすべて排除せねばならぬのだがな」
黎基は苛立ちを抑えながら言った。
刺客であった袁蓮を逃がしたことで、より悪い結果になりそうな気がしていた。
袁蓮は展可の――祥華の顔を知っており、黎基が彼女に執心であることもわかっている。それならば、祥華を利用しようとするのではないか。
彼女を盾にされた場合、黎基はどうすることもできない。国のためだろうと、祥華を犠牲にはできないのだ。これ以上、祥華を傷つけたくない。
しかし、考えようによっては、盾とするために生かしておく必要がある。そのために危害を加えられていないことを祈りたい。
どちらにせよ、早く
あと少しというところが遠い。そして、
黎基の軍とダムディンが貸してくれた武真兵、それから謹丈が連れていた兵、合わせても三万五千といったところだ。皇帝が控える
さすがに、昭甫の火毬や純粋な兵力だけで打破できるとは思っていない。
――出かける前に、いくつかの仕込みはしておいた。
不穏な動きがあれば機を見て謀反を起こす者もいるはずだ。それを煽るようなこともしておいた。
そうすることで地方からの援軍が
後で地方の鎮圧をせねばならなくなるとしても、その方がいいと考えた。
とにかく、まずは
この時、風が強く吹いていた。向かい風で、これでは火毬を使うと自滅してしまう。昭甫にそうぼやかれて、仕方なく馬を休める。本当は少しでも前に進みたいのだが、仕方がない。
馬を下り、床几に座る黎基の隣に、いつの間にかチヌアが来ていた。
黎基は床几の上からチヌアを見上げる。
チヌアが祖国からこれほど離れたのは初めてのことなのだ。思うこともたくさんあるだろう。
それでも、チヌアは年若いながらも不安を見せずに、一人の戦士としてここにいるように感じられた。
「……このすぐ先に軍勢が待ち受けていると、風が教えてくれました」
風が運ぶ音や臭いがあるのだろう。
今さら驚くこともない。謹丈が討たれたことを伝えたのは袁蓮か、どこかに潜んでいた斥候か。
伝わるのは時間の問題だとは思った。
「そうか」
黎基はそれだけ答えた。
見上げたチヌアの横顔に、兄のダムディンに似たものを垣間見た。似ていないようでいて、やはりどこかで繋がっている。
「チヌアはこの戦を見届けるよりも、無事に祖国へ帰ることの方が重要だ。あまりに不利だと感じた時、君たちを巻き込むことはしない。引いてくれ。ダムディン陛下が待っておられるのだから」
武真兵はダムディンからの借り物なのだ。自分の軍勢のようにして扱うわけにはいかない。最後の最後でその線引きだけは誤らないようにと思っている。
ダムディンは兄たちを次々に討った。しかし、この弟だけは生かしたのだ。自分の右腕として期待しているからこそ、黎基に託して外の国を見せようとしたのだろう。
彼は大事な客人だ。
けれど、チヌアは苦笑した。
「兄上は私がおらずとも立派に国を治めてゆかれることでしょう。私は何もできないただびとに過ぎませんから」
そんなふうに言ってしまうほど、ダムディンは彼にとって偉大なのだ。ああいう兄を持つと気苦労は絶えないに違いない。
――この先に待つ軍勢は、誰が率いているのか。秦呂石や秦爛石ではないとして、また雷絃の身内の誰かかもしれない。
できれば傷つけ合いたくはないが、話してわかってもらうのは難しい。
「……そろそろ行こう」
黎基は腰を上げ、軍勢が待つとされる先をじっと見据えた。
◆
明日には
晟伯はやはり、自身が怪我人であるくせに看護を手伝っている。
「先生、私は平気ですから、どうぞもう休んでください」
史俊の部下の男が晟伯にそんなことを言っていた。いつの間にか、罪人として扱っていた晟伯を敬っている。
「お気遣いに感謝しますが、私は――」
「戦になったらもっと怪我人は増える。今から無理はいけない」
軍医までが苦笑していた。まるで彼を働かせるためにここへ連れてきたようだと黎基まで思ってしまうが、晟伯は怪我人を前にしてはじっとしていられないのだろう。
「晟伯」
黎基が声をかけると、皆が拝礼した。怪我人にまでそんなことをさせたくないのだが。
「少し話せるか?」
「はい」
晟伯は木杖を手に立ち上がる。黎基が手を貸そうとすると、恐れ多いとばかりに避けられた。しかし、それを無理やり支えて天幕の外に出る。
星が綺麗に瞬いていて、思いのほか明るく感じられた。
晟伯もまたその星々を眺めていた。何を考えているのかはすぐにわかる。考えることは黎基と同じだ。
「晟伯、祥華のことなのだが……」
切り出すと、晟伯は小さくうなずいた。
「はい」
「必ず助ける」
「ありがとうございます。どうか、よろしくお願い致します」
頭を下げようとしたのか、身じろぎした。
しかし、これだけのことを言いにわざわざ来たわけではない。黎基は晟伯の横顔に向けて言った。
「展可と名を偽り、彼女は私のそばにいた。しかし、私は彼女が祥華だと気づけなかった。そのくせ、彼女に惹かれていた」
この告白に、晟伯はハッとして黎基の方に顔を向けた。落ち着いた晟伯の、驚きに満ちた顔が間近にある。
「私は彼女を妃に娶りたいと思い、それを告げたのだが、断られた。言い続ければいつかは折れるかと思ったが、頑なに首を横に振るばかりだった。それは、祥華の抱える事情のせいだったのだろうか」
「……妹は田舎の娘ですから、恐れ多いことにございます。とても受けられたものではございません。それに、私たちは里から出ないことを条件に救われたと思ってきました。祥華がお断りしたのも無理からぬことかと」
誰よりも彼女をよく知る晟伯が言うのなら、それが真実なのだと思う。だからこそ、晟伯に聞いてほしかったのかもしれない。
「それでも――」
つぶやくと、黎基は言葉を切った。己の中でこれを口にするに相応しい想いがあるのかと自問する。
けれどやはり、抱いている想いに嘘はない。誰よりも祥華のことを愛しく思う。
「それでも、私は彼女を救い出した暁には再び同じことを言うだろう。もし、祥華が私を赦してくれるのなら、私は祥華を妃に迎えたい」
たくさん傷つけた。救えなかった。
そのくせ、勝手なことを願っている。
そんなことはわかっているけれど、どうしても心は彼女を求める。
晟伯は心底困った顔をした。
「妹がそれを望むのなら、私は何も申しません。できることならば平穏に、幸せになってほしいものですが……」
黎基のそばには、平穏も平凡な幸せもないだろう。
それでもついてきてほしい。共に生きてほしいのだ。
晟伯は星空を見上げながらほんの少し笑った。
「妹の幸せがどこにあるのか、私は、本当はずっと前から知っていたのかもしれません」
そんなことをつぶやいた。
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