37◇永樂で

 翌日の朝にはうっすらと霧がかかっていた。それでも、京師みやこが見えてくる。遠目に外郭が、そして、天高く聳える搭が、この国の中心として在る。

 ここが京師みやこ永樂えいらく――。


 なんて大きい、と祥華は初めて目にした京師みやこの規模に驚いた。祥華が知る邑里むらざとをいくつ繋げたらこの大きさになるだろうか。

 中に入ってもいないのに、流れる運河のほとりには幾艘もの船が行き来し、祥華の想像を超えた。


 とはいえ、見惚れている場合ではない。祥華はこれからここで刑に処させる。下手をすると、ここは死地なのだ。


 外郭に点在するいくつかの門の中、一番大きな正門にて。

 欣史俊の部下は番兵に向けて文牒(通行証)を見せながら、つらつらと事情を話している。


「それはお疲れでしょう。さあ、どうぞお進みください」

「ああ、ありがとう」


 鷹揚に返事をし、官人たちは馬を進める。

 祥華は埃塗れの見すぼらしいなりで馬に乗せられており、朝の城下町では嘲笑されるばかりだった。子供が指をさして親に何かを訊ねる。親は子供の目に触れさせないようにと慌てて子供の手を引いて去っていった。


 疚しい行いなどして生きてきたわけではないのに、こんな辱めを受けるのだ。人生は残酷で無情。

 けれど、これからもっとひどいことになる。


 祥華が運ばれていく先は、罪人を入れる牢なのだ。それは禁城のそばにあるのかもしれない。馬はゆっくりと禁城へと進んでいく。


 牢では男覧と女覧に分かたれている。兄がここにいたとしても、そばにいることはできなかった。結局は一人で刑を受けるのだ。

 最悪、処刑となったら、最期の時に取り乱さずにいられるだろうか。


 祥華の刑が執行されたとして、それが黎基に伝わるのはいつだろう。あちらも戦いの最中にある。

 黎基が無事にこの京師みやこに辿り着いて勝利をつかむと疑うわけではない。


 ただ、あまりの目まぐるしさに、一介の罪人がこの世から消えたことを嘆いている場合でもないだろう。

 それでも、ほんの少しでも悲しんでくれたらいいと思ってしまう。


 馬は引かれるまま進み、それは禁城まで行くことはなく、役所の門構えの前で止った。


「降りろ」


 乱暴に引きずり降ろされ、祥華はなんとか着地した。

 向こうでもう一人の官人が事情を説明している。しかし、欣史俊がいない今、祥華の罪状は曖昧なところがある。


 黎基の命を狙っていたというのは欣史俊のでっち上げに過ぎず、なんの証拠もない。だから、結局のところは蔡桂成の娘であるという一点のみなのだ。


 刑部の役所に引き渡された祥華は、いきなりひどい扱いを受けることもなかった。とりあえず、審議が必要だということらしい。手首の縄も解かれた。


 他の囚人とは分けられる。みすぼらしくなっていたせいか、そこで湯を使わせてもらえた。食事も十分とは言えないが、従軍中と同じほどのものを食べた。衣も囚人用のものを借り受ける。


 しかし、ここから罪状が固まってしまえば獄中へ送られるだけなのだから安心はできないのだが。

 借りた衣は簡素な襦裙で、最早男装ではない。それも落ち着かない原因のひとつかもしれない。


 薄暗い拘留用の独房で一人、祥華は膝を抱えて顔を埋めた。

 ここからは空も見えない。

 星になった父母に励ましてもらうこともできないのだ。



 少なくとも丸一日はここにいた。

 ただただ項垂れていた後に人の気配がして、祥華は顔を上げた。戸についた小さな窓を開けたのは役人である。役人は祥華が大人しくしていたのを確認すると、獄の鍵を開けた。


「出ろ。お呼びだ」


 誰が、とは言われなかったが、判事官だろうか。

 それにしたって早い。


 さすがにこの段階になって足が竦んだ。それでも、どうすることもできない。

 よろよろと部屋を出た祥華に再び縄が打たれた。



 そして、連れられた先は役所の奥の部屋であった。ここは牢ではない。

 そこにいたのも判事官ではなかった。机と椅子しかない物足りない部屋の、光が差す窓辺に立っていたのは、一人の貴人だった。


 黒衣の、男にしては細身で優美な姿は、橋の手前で出会った秦謹丈を思わせる。彼にもう少し落ち着きと威厳を加えたような人だ。

 これが秦爛石かと、祥華は察した。


 冷たい目が、射るように祥華を見据えるから、祥華は芯から冷えきったように震えた。蛇に睨まれた蛙ほどには何もできない。


「お前は蔡桂成の娘、蔡祥華に相違ないな?」


 秦爛石が問いかける。

 この男に名を呼ばれる日が来るとは思わなかった。


「お答えしろ!」


 役人に背中を突かれた。手が縛められている祥華は、よろけて転んだ。痛みがじわりと衝撃を追うように遅れてやってくる。

 そんな祥華を爛石は見下ろしていた。


「お前に話がある」


 意外な言葉に、祥華は愕然とした。


「はな、し?」


 この男は黎基の敵だ。気を許してはいけない。

 そうは思うけれど、疲労が意識を混濁させる。


「そうだ」


 いい話のわけがない。

 そして、そこに絡むのは、間違いなく黎基のことだろう。

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