35◆苦情
あとどれくらいで祥華に追いつくだろう。
特に祥華のことを思うと、黎基は寝る間も惜しんで進軍したかった。
しかし、兵も疲れきっている。しっかりと休ませてやらねばならないのも道理だ。
黎基は就寝の前に負傷兵の天幕を訪れた。晟伯の具合を知りたかったのだ。
ただし、その怪我人は、自分の怪我などは気にしたふうでもなく、他人の手当てをしていた。
黎基が目を丸くしたのは、晟伯が傷の具合を見ながら声をかけていたのが、史俊の部下であったせいだ。史俊の言に従っていたこの官人が最も悪いと言うのではないが、晟伯たちを手荒に扱っていた。落馬し、馬に蹴られて負傷しているが、人ならば恨む気持ちも持ち合わせていただろうに。
肺腑が傷ついているのか、ヒュウヒュウ、と聞き取れない声で話す官人に、晟伯は根気よく耳を傾けてうなずいていた。
「晟伯……」
そっと声をかけると、黎基に気づいた晟伯は筵の上で居住まいを正そうとした。それを黎基が止める。
「楽にしてくれてよい。怪我人が怪我人を診ているとはな」
思わず苦笑すると、晟伯も苦笑で返してきた。
「私の方が軽症ですから。……彼は発熱が続いています。兵のために薬は貴重かもしれませんが、どうか分けて頂けませんか? 処置をすれば助かる命ですから、救わねばなりません」
医者というのは、いついかなる時も、相手が誰であろうとも等しく接するのか。
戦をする黎基は、そんな晟伯とは対極にいるのかもしれない。
晟伯の言葉を聞いた官人が、無言のままに涙を零していた。苦しさから来る涙もあれば、罪人だと見下した相手からの慈悲に思うところがあったのかもしれない。
「わかった。手配しよう」
「ありがとうございます」
晟伯はほっとしたように見えた。まるで我がことのように。
晟伯を取り戻せてよかったと思う反面、すべて赦されたような気になってはいけない。桂成を犠牲にした、あの苦しさを忘れてしまうわけにはいかないのだ。
それではあまりにも都合がよすぎるから。
◆
この時、昭甫はというと、また何かを作りたいようなので個人の天幕を用意して引き籠っていた。こちらの天幕は黎基と雷絃とで使っている。
雷絃は外にいた。外から声がする。
「――しかしな、それは……」
「お願いします、将軍」
それは若い娘の声だった。聞き覚えのある声だ。祥華とよく一緒にいた娘の声ではなかっただろうか。
そこに思い当たり、黎基は床几から腰を浮かせた。
天幕の入り口に近づくと、再び声が聞こえる。
「どうか殿下にお目通りを御許しください。展可からの
そのひと言にハッとして、黎基は天幕を捲った。
そこにいたのは、雷絃と、雷絃が可愛がっている少年兵、そして少女がいた。確か、名を袁蓮といったはずだ。
「展可からの言伝とはなんだ?」
心音が高鳴る。
祥華は、連れ去られる前に友人にだけ何かを告げていったのか。
それを聞かねばならないと、黎基は天幕から一歩外へ出た。辺りはすでに薄暗く、雷絃が持つ手燭の灯りに虫が寄ってきた。
ほのかな明りに照らされた袁蓮はふと、笑った。
「殿下……」
ほっとしたような笑みだった。その
「これに見覚えはございませんか?」
と、袁蓮は懐から紐のついた小さな袋を取り出した。それを見た時、黎基は息が詰まりそうになった。
あれは展可がいつも首から提げていたものだ。小袋を袁蓮に託し、展可は何を伝えたのだろう。
吸い寄せられるように前に出ると、袁蓮はなおも笑った。
「言伝――なんて、あっさり信じるのですね。ねえ、急に連れ去られたあの子からの言伝なんてあるわけがないでしょう? どうして展可をお助けくださらなかったのですか? 展可になんの罪があったというのですか? あっさりと引き渡してしまうなんて、あんまりではございませんか」
言伝ではなく、これは袁蓮からの苦情だ。
ごく一部の者しか詳細を知らず、傍からすれば、展可は黎基に振り回されて挙句の果てに捨てられたと感じたに違いない。だからこそ、ひと言言ってやりたかったのだろう。
その友情を責めるわけにはいかなかった。
「すまない、私が不甲斐ないばかりに……」
謝るしかなかった。
しかし、この不敬を雷絃の立場では見過ごすこともできなかったのか、袁蓮を下げようとした。
袁蓮はそんな雷絃の手をするりと躱す。
「ええ、本当に。展可があなたを護るから、手出しするのを躊躇いましたのに。あの健気な展可をお救いくださらなかった殿下なんて――もう死んでしまっても構いませんわ」
ゾッとするようなことを言い、体を揺らめかせた娘は、袖口から光る刃物を滑らせた。いけない、と思った時にはもう、袁蓮の動きを止めることができなかった。それほどまでに速かったのだ。
これはただの娘などではない。訓練された刺客だ。
袁蓮が、黎基を葬るために送り込まれた刺客であったのか。
「殿下っ!!」
雷絃の太い声が飛んだ。しかし、間に合わない。目に刃の先端を突きつけられ、目玉を抉られる瞬間は間近だった。
ただし、その時、袁蓮以上の速さで動いた人物がいた。まるで影のように音もなく黎基と袁蓮との間に割って入り、袁蓮の小刀を握る手首を下から手刀で弾いたのだ。
それは、本当に小さな影だった。
「か、鶴翼……?」
袁蓮が美しい顔を歪めた。まなじりがつり上がった厳しい顔は別人のようだ。
それに対する少年兵、鶴翼はいつもとなんら変わりない。のんびりとした口調で言った。
「駄目だよ、袁蓮」
雷絃も目を瞬いている。雷絃はこの鶴翼を養子にするのだと言っていた。年を偽って従軍しているのだと聞いたが、偽っていたのは年齢だけだろうか。
「あんた……なんなのよ?」
袁蓮が手首を押さえながらつぶやいた。それに対し、鶴翼はうぅん、と唸ってから平然と答える。
「秦
とんでもない人物の名が出た。
秦呂石――秦貴妃の実父にして、太師。政を司る重鎮である。
国を乗っ取らんとするのなら黎基を邪魔に思うのはわかる。しかし、目の前の少年を刺客として紛れ込ませたというのだ。もう少し人選を真剣にするべきではなかったのか。
それとも、警戒されないためにこのような少年を刺客に選んだのだろうか。もしそうならわかる。
鶴翼は雷絃に取り入り、黎基のすぐそばを行き来していた。完全に油断していたのだ。当人がもう少しやる気を見せていたら、黎基は今頃生きてはいない。
それを聞くなり袁蓮は乾いた笑いを零した。
「何よ、それ。あたしは別の……とある御方の刺客よ。でも、敵じゃないわ。目的は同じなのに、あたしの邪魔をするの?」
この時になって初めて、黎基は武真国へ向かう兵を募った時に男女問わずとされた理由がわかった。そこは純然たる人員不足によるものではない。袁蓮を紛れ込ませるための策であったのではないか。
美しい娘だと側近たちが見出し、黎基の伽にと宛がったなら、寝首を掻くのは容易い。結果として黎基は袁蓮ではなく展可――祥華のことを選んだのだけれど。
袁蓮の剣幕を、鶴翼はふわりと笑って躱した。
「寝返る」
「はぁっ?!」
それは楽しそうに、鶴翼は両手を広げた。
「郭将軍が僕のことを可愛がってくれたから。僕、嬉しかったんだ。それで寝返ることにした」
知らず知らずのうちに、雷絃は黎基の命を救っていたらしい。
呂石からしてみれば、警戒されにくい子供を刺客に選んだのだろうけれど、根っから子供すぎたのではないのか。
鶴翼がどのように育てられたのかまでは知らないが、このふんわりとした様子がすべて嘘ということもなさそうだ。
「袁蓮も寝返っていいんだよ?」
ニコニコと、とんでもないことを言った。袁蓮の方が刺客としてはもう少しまともであった。
「寝返るわけないでしょっ!」
「寝返ってよ。僕、今さら袁蓮と戦いたくないよ。展可だって策瑛だって悲しむし」
その名を出されると、袁蓮は弱いのかもしれない。一瞬怯んだ。
「うるさいわね! 無理よ!」
それだけ言い捨てると、袁蓮は背を向けて駆け出した。あまりに唐突な展開に、黎基はまるでついていけなかった。雷絃も半ば呆けていたが、途中で我に返った。
「あ、後を追え! 逃がすな!」
しかし、袁蓮は馬を一頭盗み、颯爽と逃げたのであった。
袁蓮の去った後には、展可の小袋が落ちていた。
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