34◇心の支え

 祥華と官人を乗せた馬はひたすら走り続けた。

 官人はとにかく、黎基の軍から逃げねばと必死の形相だった。馬が疲れて潰れる寸前になってようやく歩かせた。後ろから追いついたのは、一人乗りの官人だけであり、兄を乗せた馬は一向に来ない。


 不安だけが募った。

 そして、追いついた官人は顔を紅潮させながら告げた。


「蔡晟伯と林韶りんしょうの馬が射られた。儀王様の兵にだ。欣御史にも何かあったのだろうし、あの二人も……」


 仲間を見捨てて先に来たらしい。

 兄のことは黎基たちが助けてくれたと受け取っていいだろうか。郭将軍たちも兄のことを庇ってくれていた。

 もしそうなら、祥華はこの上なく嬉しく思う。兄を巻き込んでしまったのは祥華なのだから。


 官人たちはチラリと祥華を見遣る。


「……どうする? 欣御史は来られない。それなら、この娘を連れていく必要はあるのか?」

「もともと、儀王様のお命を狙っていたというのは欣御史が言い出されたことで、確かな証拠があるわけじゃない。……けれど、おかしくはないか? 罪人として引っ立てるのに、どうして儀王様が取り戻そうとされるのだ?」

「この者たちに何があるのか……。右丞相のところへ連れていくといいと言われたが」


 欣史俊がいない今、この二人の立ち位置はどうなるのだろう。もし、秦一族に取り立ててもらえるのなら、願ったり叶ったりだと考えてはいないだろうか。


「とりあえず、京師みやこを目指そう。この娘は役場に引き渡し、右丞相には報告だけ行うのがよいのではないか? 後は、我々が関わることではない」

「ああ、そうだな……」


 なんとかしてこの二人を説得できないものだろうか。欣史俊の命令で兄妹を連行していたのだ。その上官が追いつけないのなら、この二人には無理をする必要はないはずなのだ。


 黎基と欣史俊との間に何かがあったと二人は考えたようだが、実際のところ何があったのだろう。彼は黎基の昔馴染みではないのか。少なくとも黎基は彼を信用しているふうに見えた。

 祥華は思いきって口を開く。


「あの、欣御史に何があったとお考えなのでしょうか?」


 すると、ずっと黙っていた娘が口を利いたので、官人たちはぎょっとした。


「な、何故とは、謀反を企んでいる恐れがあると左丞相は仰られた。それをお諫めして捕らえられたのだろう」


 そういう解釈らしい。本気なのかはわからないが。

 すると、もう一人の男に睨まれた。


「殿下が反旗を翻されたら謀反人だ。お前たちの父親の罪はなかったことになると思うのか?」

「い、いえ、そういうことでは……」


 その発想はなかったが、そんなふうに受け取られたらしい。


「しおらしくしているから大目に見てやっていたが、図に乗るな。お前たちの言葉には耳を傾けるなと欣御史も仰せだった」

「次に口を開いたら、その舌を抜いてやろう」


 祥華はグッと黙るしかなかった。

 とても話が通じそうもない。

 欣史俊の部下たちは上官のことを信じているのか、それとも、信じているというていでいた方が何かと都合がいいのか。


 少し前までなら、祥華もここで諦めていたかもしれない。どうしたって自分は助かりっこないのだと。

 今までも、運命が祥華の味方をしてくれたことなどなかったはずだ。父を奪い、母を奪い、黎基を窮地に追い込み――。


 しかし、もう嫌われてしまったのだと思っていたのに、黎基は川向うから祥華の名を呼んでくれた。

 正体が露見したのだ。合わせる顔もないはずが、黎基はまっすぐに祥華を見ていた。


 嫌われたのではないのか。まだ、少しでも情を抱いていてくれるのか。自分を害した医者の娘だと知っても、想いを残してくれるのか。


 思えば、祥華は黎基に自分自身の気持ちを伝えていない。

 父の罪があるからと、そればかりを理由にして、本心を伝えなかった。

 共にいられる未来などはないから、想いを口にしたところでつらくなるだけなのだと。


 けれど今、もしも黎基が赦してくれるのなら、ほんの少しくらいは素直になれる気がした。

 罪人が黎基のそばになどいられることはないとしても、それでも伝えることができたら、と夢見てしまう。

 その想いだけが今の祥華には支えだった。

 


 そうして、京師みやこへ近づくにつれ、風が重たく感じられる。春とは思えない物々しさのわけは、公道に陣取る軍隊のせいだ。

 今、他国との戦はない。それなのに禁軍が動くのは、やはり黎基を京師みやこへ近づけないためだろうか。


 

 

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