33◆誰であっても

 救出した晟伯は、落馬した際に足首の骨を折っていた。しかし、手枷が外れると、軍医の手助けも借りつつ、自身で処置をした。痛いだろうに、脂汗を浮かべながらも淡々と添え木をして包帯を巻き、それを見守っていた黎基に恨み言のひとつも吐かなかった。


 父親のことで引け目があるからか。身分が違うからか。

 何よりも大事にしてきた妹が傷つけられたというのに、晟伯は黎基を責めない。

 彼の落ち着いた顔を見ているだけで苦しくなるが、黎基は晟伯のそばを離れられなかった。


 同じ天幕の中、軍医と昭甫もいたが、昭甫は軍医に何かをささやき、連れ立って外に出た。本当に、黎基のことをよくわかっていてくれる。

 しかし――。


 二人、交わす言葉は少ない。

 静寂に苛まれる。


「すまない……」


 やっとの思いで、それしか言えなかった。

 しかし、晟伯としては謝られても意味がないのかもしれない。


「何を謝罪なさるのですか? 私と妹は、殿下をお恨みしたことなど一度たりともございません」


 穏やかにそれを返してくる。

 けれど、それは違う。すべては黎基のせいなのだ。

 そして、晟伯は何も知らない。


「……祥華は罪に問わぬと約束したくせに、むざむざ連れ去られてしまった。それから、祥華がこれほど身近にいると気づけなかった」


 すると、晟伯は痛みのせいもあってか、やや苦しげに眉を下げた。


「それは妹が隠し通そうとしたからでしょう。『愽展可』というのは、里の幼馴染の名なのです。本物の展可は里におります」


 それから、晟伯はゆっくりと、物語を語るように続けた。


「祥華は、御目を患われた殿下が戦に出られると聞き、里を出てはならないという約束事を破ってでも、どうしてもお役に立ちたいと言って聞きませんでした。あの子はいつでもそうです。幼い頃から、いつか殿下のお役に立てたならと、ずっと願っておりました」


 床几に座った黎基が膝で握り締めている拳が震える。

 そこに晟伯の視線が留まっても、震えは止められなかった。


「それは、私の目のせいか? ……蔡先生の咎だと、ずっと気に病んでいたのだな」


 それこそが嘘なのだ。

 その嘘のために、祥華は身を挺して黎基を護ってくれた。彼女の心を踏み躙ったような心持ちになり、居たたまれない。拳の中で手の平に爪を立てた。


 しかし、晟伯は苦笑する。その苦笑の意味が黎基にはわからなかった。


「表向きはそう言っておりました。けれど、それだけではございません」

「それは……」


 汗が黎基の顎からぽたりと落ちる。

 晟伯は父親に似た慈しみ深い目で、そんな黎基を見守っていた。


「父のことがあってからは、妹は償いと口にしていましたが、そればかりではないことも私は知っております」


 天河離宮で祥華とは数えるほどしか会っていないが、当時は皇太子であったから、敬う気持ちを抱いてくれたとする。それでも、たったあれだけの繋がりで十年も気持ちを支えていられるものなのだろうか。

 幼い頃、黎基と会って祥華が嬉しそうに何を話していたかも、今ではよく覚えていなかった。


 再会した黎基の行いは、健気な祥華にとってひどいものであった。

 祥華の心を知らず、一人で空回り、嫉妬し、怒り、あまりに愚かだ。

 どれだけの失望を与えたことだろう。

 もう、気持ちの欠片も祥華の中には残っていないのかもしれない。


 この兄妹に対し、黎基はもうどんな嘘もつきたくなかった。この嘘だけは墓まで持っていくつもりが、懺悔をするように口から零れる。


「あれは、蔡先生の過失ではない。先生は、私を救うため、薬を飲むなと忠告してくれたのだ」


 はっ、はっ、と短く息をする。緊張で浅い呼吸を繰り返し、黎基は自分の胸元を握り締めた。

 晟伯は、ただ静かに聞いていた。


「先生は陰謀に巻き込まれた。それなのに、私は先生を救えなかった」


 晟伯の目が悲しげに揺れた。父親の桂成が共にいるような感覚さえしてしまう。

 だからこそ、詫びたかったのかもしれない。


「私の目は、ずっと見えていたのだ。見えないふりをして暗殺者を騙し、廃太子となって命を長らえた。先生が私を救ってくれたというのに、先生を見殺しにしてしまった。本当に、すまない……」


 目が見えないのが嘘だったと。父の死と、自分たち家族の苦悩はなんだったのだとなじられても仕方がない。

 それでも、これ以上、嘘をついているのがつらい。恨まれようと、祥華にも誠実でありたいと願った。


 この告白は、晟伯からしてみれば、知らない方がよかったことなのかもしれない。知ったが故に人を恨む気持ちを知ったのだとすれば――。


 晟伯の面持ちからは憤りも窺えない。

 本当に、激しく怒る様が想像できない青年だ。

 ひとつ、おもむろにうなずいたかと思うと、晟伯はつぶやいた。


「そうでしたか」


 それだけなのかと問いたくなるようなひと言だった。

 だからこそ、黎基はどうしていいのかわからなくなる。家族を返せと責められる心構えしかないのだ。


 そんな黎基の心が伝わったのか、晟伯は低く心地よい声音で言った。


「それは殿下もお苦しみになられたことでしょう。もちろん父は、殿下がこの国にとって大事な御方であると考え、自らを犠牲にしたに違いありません。けれど――」


 そこで言葉を切ると、どこか悲しげに、それでも誇らしげに笑った。


「けれど、それと同時に父は、仮に相手がただの庶民の子供だったとしても、誰であっても見過ごしにはできなかったでしょう。人の命を救うことを使命としている父でしたから」


 誰であっても。

 それを聞いた時、黎基の中で蟠っていたものが砕けたような気がした。僅かに、少しずつ心にあたたかさが沁みていく。


 自覚もないままに頬を涙が伝っていた。

 晟伯には赦しを与えるつもりが、赦されたのは黎基の方であった。


 あの蔡桂成という仁人の命を踏み台にして生き長らえたことを、重荷に感じるのも勝手だと思っていた。苦しくとも、それは生きているのだから当然だ。この苦しみは自分が選んだことなのだと。


 しかし、その重荷から解放されたような心の軽さが、涙になって流れた。

 晟伯は、そんな黎基を穏やかに見守っていてくれた。



 

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