32◆一矢
秦謹丈を破った。
これで秦一族は黎基を今まで以上に目の敵にするだろう。
討伐の兵が次々に送り込まれてくるとしても、それを退けて祥華を取り戻さねばならない。
秦謹丈の遺骸は、今のところ辱めるつもりはない。秦一族の者たちの出方次第で扱いは変えるつもりだが、穏やかにことを進めるつもりがあるのなら、このまま返してやるつもりだ。
板に乗せ、運ばれていく男の死骸を鳥たちが狙うので、麻布をかけて隠した。しかし、死臭は消えない。最早そこに魂はなく、これは交渉の材料――ただの道具でしかないのだ。
どのような知略を巡らせ、才を誇ろうとも、死ねばそこまでだ。
謹丈と争ったあの橋を渡り、そのまま川沿いに進んでいく。この時季の川は水嵩が多く、渡河は難しい。迂回する方が無難だ。何せ、昭甫の扱う火薬は水に弱い。一度濡れてしまうと使い物にならなくなるという。それ故に昭甫は神経を尖らせていた。
火毬の原料は取り扱いに注意が必要で、それ故に行軍の際には昭甫が軍のすべての物資の管理をしていた。どこに火毬の材料を分配して運ぶか、それは昭甫が考えて振り分けたのだ。一か所に集めると暴発してしまう恐れがあるらしい。
この時、役に立ったのが、あの砂袋を載せた糧車だったという。昭甫は砂の中に火薬を入れた鉄箱を隠して運んだ。
しかし、それでもやはり水辺には昭甫も過敏になる。火薬の原料はかなり限られた環境でしか採取できず、駄目にしたからといって簡単に作り直せるものではないのだそうだ。
だから、手持ちの火薬が使えなくなったら、黎基の命運も尽きたことになる。
そんなことを考えながら川の流れを眺めていると、これを人が止められぬように、運命もまた行き着くところに辿り着くようにしか巡らないという気がしてしまう。
悪人だろうと力があれば他者を退け、権力を掌握してしまう。正義があろうとも、弱ければ退けられるだけだ。
自分たちを取り巻く運命は、どこへ行きつくのか。黎基の辿り着く先に祥華はいるのだろうか。
黎基は史俊を捕らえた際に、晟伯の手枷の鍵を取り返した。これで晟伯を解放できるが、それは無事でいてこそ意味がある。
二人に早く追いつきたいと気持ちだけが急いた。
そんな時、先を行く騎馬兵が川の向こう岸の何かを気にしていた。雷絃が川縁に近づき、兵と話している。その時、向こう岸にいるのが史俊の部下で、祥華と晟伯を連れて馬を休めているのが見えた。
まさかと思った。もっと先に行ってしまったのではなかったのか。
目を疑ったが、縄で縛められた祥華は馬に乗せられ、今にも走り去るところだった。
黎基は思わず馬で前に乗り出し、その場から叫んだ。
「祥華!」
馬上の祥華が、ハッとしてこちらに顔を向けた。
黎基が『祥華』と呼びかけたことに対する驚きが勝ちすぎていて、それ以外の感情が読めなかった。
なんの罪もない祥華を傷つけた黎基を、まだ赦してくれる余地はあるのだろうか。都合のいいことを言ってしまうけれど、謝らせてほしい。
「祥華! 私は――っ」
「殿下、危のうございます!」
前に出すぎだというのか、雷絃が黎基の手綱を横からつかんだ。
しかし、黎基はそれすら煩わしく思えた。見えるところに祥華がいるのに、手が届かないなどということがあって堪るかと、手綱を引く。それでも、雷絃に力で敵うはずもない。
「離せ、雷絃」
「いけません!」
そんなやり取りをしているうちに、祥華を乗せた馬は駆け去る。史俊は捕らえたが、彼の部下たちには
晟伯の方は、馬に乗せるのにも手間取っていて、まだ走り出せていない。それが見えても、この距離では打つ手がない。黎基は歯噛みするしかなかった。
しかし、チヌアの馬が黎基よりも前に鼻面を突き出した。黎基が驚いて顔を向けると、チヌアは細腕に似合わぬ力で弓を引き絞っていた。膂力ばかりでなく、あの弓も手入れが行き届いていて、よく
チヌアの腕前は先の戦いで見たが、それでもまさか届くはずがない、と黎基には思えた。川風もあり、矢はまっすぐに飛ばない。速度も削られる。向こう岸に着いただけでも驚くべきことだ。
それなのに、チヌアの連れた武真兵は、この王弟を信じているのか、数人が先へと馬を走らせた。
チヌアは極限まで絞った弓弦をやや上に向けてピィンと弾いた。あれなら川風の影響を緩和できるかもしれない。それでも、狙った先へ当てることはできないだろう。威嚇のつもりなのか。
大きく弧を描いた矢は、驚くべき飛距離を見せた。矢も、この国のものとは違う。矢尻が細い。
チヌアの矢は、晟伯が乗せられた馬の脚の真横に刺さった。不思議と、外れたのではなく、外したのだと思える。それでも馬は怯え、手綱を握る男が押さえつけるのに必死だった。
あれは軍馬ではない。恐怖で暴れ、史俊の部下と晟伯とを振り落としにかかる。
チヌアが第二矢をつがえたのが見えたせいか、もう一人いた男は自分も射かけられるとばかりに仲間を見捨てて馬を走らせた。
手枷をされている晟伯は受け身も取れないまま地面に落ちたが、続けて落ちた史俊の部下の男は恐慌状態の馬の後ろ足に蹴られた。
暴れ馬も駆け去り、晟伯と史俊の部下だけが川原に倒れるという形で残された。しかし、どちらも動いている。生きているはずだ。
蹄の音が川のせせらぎに混ざる中、チヌアは黎基の横でひとつ息をつく。
「できれば彼女を止めたかったのですが、そちらは間に合わず申し訳ございません」
先ほどまでの堂々とした様子から、いつもの穏やかな顔に戻って詫びてくる。
「いや、それでもありがたい。助かった」
ダムディンはこの弟を優秀だと称した。チヌアの腕前を知っていたのだろう。
しばらくして、向こう岸に先に出た武真兵が到着し、二人を確保した。
未踏の地であるはずが道案内を必要とせず、川などの地形から、先へ続く道はこうだと予測を立てて走り、そして辿り着く。武真国の者は野性というのか、感覚が鋭い。攻め入られたくはないと真剣に思う。
晟伯を取り戻すことはできたが、祥華だけが連れていかれた。
この場合、祥華の心の支えを奪っただけの結果になりはしないだろうかと、黎基は川向うから祥華を案じた。
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