31◇川向うから
遠くであり得ないほどの轟音が響いた。鳥たちが音のした方から逃げてくる。
祥華はハッとして上空を見遣るが、何が起こったのかを推し量ることもできなかった。空は青く晴れ渡っていて、天災が起こる前触れも何もなかったのだ。この音は一体――。
考えが及ぶのは、雪解けの水で土砂崩れを起こしたというところか。それとも音の質が違うような気はしたが、わからない。
官人たちもひそひそと話しているが、音の出所はやはりわからないのだろう。戦場で両者がぶつかり合って生まれた音かもしれないが、見ていない以上は推測の域を出なかった。
黎基の軍は今、戦っているのだろうか。郭将軍たちがいるのだから負けないはずだが、卑劣な手を使われないとも限らない。
人の心配をしている場合ではないとしても、気が気ではなかった。
馬を繋いだ隣に、兄妹も川沿いの木に家畜のようにして縄で繋がれている。こんなに近くにいても、兄とはろくに言葉を交わすことができなかった。ただ、目で互いに語り合うだけだ。
たくさんの謝罪をそこに込めるしかなく、兄はそれに対し、常に空ほどに広い愛情で受け止めてくれた。それが心苦しい。
兄はここ数日で窶れて見えた。それは刑罰を恐れているということではなく、ひたすらに祥華を心配してくれているのだ。
十年前もこうして二人で共に死ぬのかと覚悟をした時間があった。
あの時も二人なら、と少しだけ恐ろしさが薄れた。
けれど、できることなら生きたい。あの幼かった頃よりは何かができる自分になったはずなのに。
日が真上から少し動いた頃。
はっきりとした時刻はわからないが、そう短くもない時をここで待った。この官人たちは天幕も持たないので、日が暮れる前にどこか雨風をしのげる場所を探さねばならなかった。
集落はなくとも、時折旅人のために営む宿があり、そうした場所を利用する。
待てども欣史俊は来ないと彼らも判じたようだ。腰を上げた。
「欣御史が来られないのなら、右丞相に事の次第をお伝えするべきなのだろうか?」
あの時、右丞相――秦爛石にと、秦謹丈がささやいた言葉が引っかかっているのだ。
祥華はぶるりと身震いした。どうしたって自分の手には負えない相手だろう。
「そうだな。罪人の拘束は刑部の提牢庁の管轄だが、右丞相は刑部尚書にも顔が利くはずだ。それにもし欣御史が後で何かを言われても、右丞相が相手ならば問題はない」
官人たち三人はそんなことを話し合った。
祥華を繋いだ縄を木から外し、その縄を解くことはせずに馬の鞍へと乗せる。目方の軽い祥華よりも、瘦身とはいえ男の兄の方が手間取っている。一人が押し上げ、もう一人が引き上げにかかるのだ。
この時、官人たちの手が一度止まった。
聞こえてきた馬の蹄の音のせいだ。複数の馬が駈ける音が近づいてくる。
それは秦謹丈の軍のものなのか、それとも――。
ドッ、ドッ、と祥華の心臓が跳ねた。
官人たちは兄を再び馬上に乗せようとするが、急ぐせいか上手くいかない。縛られている兄は乗せやすいように自発的に協力するわけではないのだ。
川の向こうに人馬が見えた。ここには橋がない。渡河するには深く、迂回せねばこちらに近づけないとわかっていても、何が起こるかわからない。
とはいえ、飛ぶ鳥を落とした鶴翼の弾弓でさえ、こちらにまでは届かないだろう。
向こう岸に現れたのは、黎基の軍であった。ここへ現れたということは、秦謹丈を破ったのだ。ひと際大きな郭将軍の人影が見え、祥華は泣き出したいような気分になった。
その横には将軍の弟がいた。争わず和解できたらしい。そのことにもほっとした。
そして、誰よりも会いたかった人が、馬を走らせて川縁まで近づいてきた。いけない、と祥華は内心で慌てたが、黎基の手綱を郭将軍が横から止めた。川に突入しかねない勢いだったのだ。
祥華を乗せた官人は、謀反を企てているとされた黎基が追いついてきたことで欣史俊に何かあったと考えただろう。実際に何かがあったのではないか。黎基のそばに欣史俊はいなかった。
官人はひどく怯えた様子で馬の腹を蹴る。
馬が走り出す時、川の音にも掻き消されない、はっきりとした声が川向うから祥華の耳に届いた。
「祥華!!」
ハッとして振り返るが、黎基の顔を見られたのはほんの僅かな時だった。それでも、必死の形相で叫んでいた。
展可ではなく、
この時、祥華がつき続けていた嘘は暴かれたのだと知った。
祥華はもう、黎基にとって愛しい娘ではなく、憎い相手に連なる者である。
それなのに、どうしてそんなにも切なくこの名を呼んでくれるのか。
祥華が蔡桂成の娘であっても、まだどこかに気持ちを残していてくれるのだろうか。
郭将軍に止められつつも、黎基は祥華に何かを伝えようとしていた。
しかし、距離が開きすぎていてほとんど聞き取れない。むしろ、最初のあの呼び声さえ聞こえたのが不思議なくらいだ。
祥華もまた、声を返したかった。けれど、焦った官人が馬を走らせる。
「あっ!」
兄の方はまだ完全に馬に乗っていなかった。二人の距離が広がっていく。
「兄さん……」
不安になってつぶやいても、祥華の乗る馬は止まらない。かなり間が開き、兄の姿も見えなくなってしまった頃、馬の嘶きだけが響いた。
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