29◆愚策
貂絃も武人としては一級、相手が雷絃でなければ勝敗はわからなかった。
一瞬の隙を突き、雷絃は弟の槍を片手でつかみ、ねじり取った。
あの速さで繰り出された攻撃だ。貂絃にとっては隙を見せたつもりもなかっただろう。雷絃が特別に優れているというだけだ。
もしくは、雷絃と貂絃とでは心構えが違うからか。貂絃には迷いがある。
一方、雷絃には退けない理由しかない。
敵わないと諦めた貂絃が馬上でだらりと腕を下ろした。しかし、そんな時でも秦謹丈は笑っていた。
「おや、情けない限りですね。生き恥をさらすのはおつらいでしょう? もう結構ですよ。あなたの役目は終わりです」
酷薄な言葉が貂絃に投げつけられた。
しかし、貂絃はそれに対して憤りを見せなかった。言われた通りだとでも思うのだろうか。
「違う!」
それを認めるべきではない。
黎基は叫んだ。
「何が生き恥だ。恥知らずはお前たちの方だろう。兄と戦う弟の心情をお前が
情に絆されるのは武人として褒められたことではないにしろ、人の心を失くしていては獣と変わりない。葛藤しながらも向き合った貂絃の苦しさを馬鹿するのは赦せなかった。
けれど、謹丈はそれを、さも可笑しいとばかりに嗤うのだ。
「どうでもよいことです。もとより、貂絃殿が勝てるなどとは思っておりませんでしたから」
それならば何故けしかけたのだ。
黎基や雷絃に苦痛を与えたかったと、ただそれだけのことなのか。
この時、昭甫が嘆息した。
「殿下、いざとなったらお許しください」
「……わかった」
昭甫もまた、嫌な予感がするのだろう。
それもそのはずで、先ほどまで雷絃たちの戦いに見入っていた兵士たちの様子がおかしかった。ゆらゆらと、陽炎のように揺れている。表情はないに等しかった。
彼らの顔からは怯えも消えていた。戸惑いもそこには読み取れない。
謹丈はくつくつと堪えきれずに笑い声を立てた。
「あなたの軍勢が目視できた頃、兵に景気づけだと飲ませた酒に少々混ぜ物をしてありましてね。効果が表れるまでの時間稼ぎをして頂きたかったのです。何せこれは使いどころが難しくて」
秦謹丈はおかしな術を使うと噂されていた。それは薬によるものであるらしい。
この様子だと、兵は命じられたままに動くよう操られたのではないか。皇族に刃を向けることを躊躇う兵もいたはずなのだ。それを防ぐために意思を奪った。
「貂絃、おぬしは……」
雷絃が問いかけるが、貂絃はかぶりを振った。その顔がみるみる青ざめる。
「わ、私も飲みましたが、何も……」
それを聞くと、謹丈はがっかりした様子だった。
「おや、効き目がないと。たまにそういう者もいるのですよ。体が大きい分、効きにくいのでしょうね」
黎基は謹丈を睨み、低く保った声で問いかける。
「その混ぜ物とやらの効力はなんだ? 思考が麻痺し、命じられたままに動くとでも?」
すると、謹丈は満足げにうなずいた。
「ええ、その通りでございますよ。ただし、
死傷への恐怖心も、皇族に弓引く不遜も、何もかもを感じさせなくしてしまったというのだ。人を人とも思わぬ所業である。
この男ばかりではなく、秦一族はこんな者たちの集まりだ。己のことしか考えない。それで国が潤うはずがないのだ。
やはり、どんなことをしてでも退けねばと黎基は強く思った。
「しかし、その効力は長くはなさそうだな」
試しに言ってみた。酒に混ぜたというのなら、精々がその酒の酔いが回っている程度の時間しか持たないのではないかと。
そうであってほしいと思うからでもあるが。
謹丈はムッと表情を硬くした。黎基の読みは外れてもいないらしい。
「死をも恐れずに全力で向かってくる兵から、効力が切れるまで逃げ切れるとお思いですか? 短時間で勝敗は喫します。さあ、お喋りで時間を稼いでも無駄ですよ。戦を始めましょう」
今にも謹丈は兵をけしかけてくる。
この場をどう切り抜ければよいのか――。
兵たちの目は虚ろで、とても言葉が通じる様子はない。催眠の類を覚ますには、痛みを与えるとよいかもしれない。しかし、こちらは二万兵、あちらはそれ以上の数である。殺す気で向かってくる相手を一兵ずつ強打して回っていてはこちらが疲弊してしまう。
「儀王様だけは捕縛するのだ。殺してはならん。生きたまま貴妃様に身柄を引き渡すお約束だ」
謹丈がそんなことを兵たちに命じた。
生け捕りにしろと。貴妃の目の前で、這いつくばって赦しを乞えとでも言うのだろうか。例え切り刻まれようと、そんなことはするつもりもないが。
とりあえず、兵たちの催眠を解くためには強い衝撃が必要だろう。酔いが覚めるような、何かが。
「あ、兄上……」
貂絃が初めて、すがるような目をした。
命じられるまま戦に出たものの、謹丈の非道さに己の立ち位置が崩れたのだろう。幼子のように頼りなく感じられる。
雷絃が口を開く前に、黎基が答えた。
「貂絃、どちらが国に巣食う害虫か、己の心で判断しろ。心に従え」
ヒュッと短く息を吸った貂絃から、黎基は後方の昭甫に視線を移した。
「昭甫、どうやら
昭甫はというと、こんな時だというのにひどく嬉しそうに笑った。
「かしこまりました」
馬の鞍にくくりつけてあった鉄箱の重々しい蓋を開け、昭甫は雷絃の方へと馬を進める。雷絃は苦笑し、腰に忍ばせてあったものを取り出す。
そんな様子を、黎基はチヌアと共に眺めるのだった。
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