27◆相対
橋の手前にて。
馬上の黎基は馬を止め、正面の軍と対峙する。その軍勢の中にいたのは、秦謹丈であった。
橋の袂から声を投げかける。
「儀王様、御目が御快癒なさったとの報せは真であったようにお見受け致します。まず、お祝いを述べさせて頂きましょうか」
秦貴妃の従兄に当たるこの男と面と向かって口を利いたことなどない。
端整な顔立ちではあるが、薄気味悪く羽扇で口元を隠し、目だけで微笑んでいる。神経が逆撫でされるような不快感しかなかった。
黎基は鋭く相手を見据えた。今まで隠されていた黎基の目に、謹丈はどのような印象を受けただろうか。
「余計な前置きはいい。本題に入れ」
打つ手がなく、大人しく振る舞っていた幼少期とは違う。今の黎基は戦うために戻ってきたのだから。
謹丈の顔から笑みが消えた。軽くうなずくような素振りを見せる。
「なるほど、目が見えるようになって気が大きくなりましたな。しかし、今のあなた様は未だに廃太子。目が見えたところで、できることは限られております。それどころか、少々勝手をしすぎてはおられませんか」
「勝手をしているのはどちらだ? お前たちではないのか」
ピシャリと言い放つと、謹丈の扇を持つ手に力が籠った。
こうもはっきりと言い返されるとは思っていなかったのかもしれない。苛立ちが見える。
「私共がなんです? 何のことを仰っているのやら――」
わざとらしく嘆息してみせる謹丈に、黎基は刃物ほどに鋭く、なんの慈悲も込めないままで言い放った。
「この国はお前たちの私物ではない。ここに生きる民のための国だ。お前たちがこの国のために何をした? 何かをしたというのなら、その行いが国を豊かにしたのかを自問してみろ。お前たちは所詮、女狐が食い零した餌に群がって恩恵を受けているだけの獣だ」
あまりの言い分に、謹丈は扇を落とした。大人しかった廃太子がこのような苛烈な言葉を吐くとも思わなかったらしい。
しかし、黎基はもう、彼らにどう思われようとも構いはしないのだ。
「それは……貴妃様を貶める言葉と受け取らせて頂きますが」
「そう聞こえなかったのならば耳が悪いな」
「なっ……」
謹丈は怒りに震えるが、きっと黎基の後ろでは昭甫が笑いを噛み殺していることだろう。この口の悪さは彼から学んだと言っていい。
「貴妃様は素晴らしい御方です。誰よりも国のためを思い、ご自分すら犠牲にして生きてこられました。あなたに貴妃様の何がわかるというのです」
風が運んでくる謹丈の声に、先ほどまでにはなかった憎しみが籠る。
秦貴妃は確かに美しいかもしれない。謹丈にとっては幼い頃から馴染んだ親類で、皇帝の男児を産んだ一族の誉であるのもわかる。それでも、異常なまでの崇拝を感じた。
「貴妃様を愚弄なさるのは、陛下を愚弄するに同じ。そのところをおわかりでしょうか?」
そのひと言に失笑した。この男は何を言うのかと。
「同じはずがなかろう。どこまでつけ上がる気だ? もういい、そこを退け」
時が惜しいのだ。この男は所詮、雑魚に過ぎない。さっさと退けねば先へは進めない。
それでも、謹丈はまだ強気だった。蔑みを強く目に浮かべ、黎基を見遣る。
「薄汚い武真国の兵まで連れて、やはり謀反ですか? しかしながら、その程度の兵力ではここを通過することもできますまい」
「それはお前の予測でしかない。すぐに考えを改めるがいい」
秦謹丈は文弱の徒である。戦の気をまともに受け止められる男ではない。
姑息な謀を巡らせることはできても、真っ向から戦をすることはできないのだ。妖術のようなものを使うとも言われているが、それをする
しかし、この時、謹丈が従える兵の中に、特別体つきの立派な武人が混ざってるとようやく気づく。
きっと、雷絃はもっと早くに気づいていた。当然だ。弟なのだから。
謹丈は顔をしかめて雷絃の弟、郭
「反意を抱く廃太子に従うのなら、あなたの兄も謀反人。早々に討って頂きましょう」
貂絃は黙っていた。
黎基が彼と最後に会ったのは何年前だっただろうか。貂絃は雷絃をよく慕っていた。だからこそ、盲目の廃太子にこだわる兄をもどかしく感じているふうだった。
貂絃にはあまりよくは思われていないと、黎基自身がわかっている。しかし、雷絃にとっては弟なのだから、争うことはさせたくない。
させたくはないが、しなくてはならないのが戦である。
「殿下、お下がりください。ここはお任せくださいませ」
雷絃が轡を前に出した。手には長槍が握られている。
顔は穏やかで怯む様子も戸惑いもない。それは雷絃が武人だからだろうか。
雷絃が養子にしたいと連れていた少年兵が心配そうに弓を握って見守っている。
兄の姿を認めると、貂絃は苦しげに呻いた。
「兄上……」
そんな弟に、雷絃は笑顔で言った。
「戦場で敵と味方とに分かれて対峙しているのだ。兄も弟もない。俺は忠節を誓う殿下の御為、ここを破らねばならん」
それを聞くなり、貂絃は眉根を寄せてさらに厳しい顔になった。
「その言い分では戻るつもりもないご様子……。兄上のせいで我が郭家から反逆の徒を出したと謗られましょう。それでも兄上は何も恥じ入ることはないと仰るのですか」
「そうだ。家名を守るため腐敗に目を瞑ることこそ恥ずべきだろう。さあ、言葉ではなく槍で兄を黙らせてみせろ」
雷絃と貂絃との年の差は四つ。いつでも技量は雷絃の方が上であった。しかし、いつまでもということは、もしかするとないのかもしれない。貂絃も日々精進しているはずなのだ。
言葉が途切れ、橋の上で兄弟は向き合う。この人が犇めく戦地において、川風すらやんだ静かな時であった。馬の手綱を絞る音を皮切りに、二人は腹の底から声を上げて打ち合った。
体格に恵まれた二人だからこそ、周りが圧倒されるほどの戦いを繰り広げた。一合、二合――打ち合うごとに火花が散るような重さがある。
それでもやはり、雷絃は別格だ。二人いる兄にも勝るとささやかれる腕を、誰もが疑わない。これだけの武人が廃太子に忠節を誓うのを口惜しく思えるだろう。
黎基は弟と戦う雷絃の姿を眺め、己に問うた。
肉親と争うという苦痛まで与え、それでも黎基に仕えてくれる雷絃に、己は相応しい主君であろうかと。
血が、跳ねた。どちらのものか――。
互いが仇のようにして戦う。よく似た二人。
二人の顔は覚悟に染まっている。けれど、どちらも望んでのことではない。二人が生きることこそが正しいはずなのだ。
それでも、ここを通らねばならない。もし、どちらかが倒れたとして、黎基はその命を抱えて先へ行く。そうして、辿り着いた先で己のすべきことをするだけだ。
そうでなくてはならない。しかし、ずっとそばにいた雷絃だからこそ、今後もずっと見守っていてほしい。祥華も含め、黎基のすべての望みが叶うなどということはないにしろ、それでも。
この時、二人の戦いに誰もが見入っていたが、謹丈だけが目を背けていた。文官故に血が嫌いなのだろうと思ったが、そんなに甘い男ではなかった。
謹丈は自分が抱える兵たちを眺め、口元は微かに笑っていたのだ。
それは不吉な笑みだった。
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