25◇橋
風を切りながら馬が走る。
展可――この名を名乗る意味はもうない――祥華は縛られたまま、馬から落ちないように大人しくしているしかない。
相乗りしている官人の熱が背中から伝わるが、これならば寒い方がましだ。
黎基は、祥華がいなくなったことにもまだ気づいていないだろうか。
いなくなったとしても、もう顔も見たくないので丁度よかったとしか思われなかったなら悲しい。そんなに薄情な人ではないと知りつつも、嫌われた原因もはっきりとはわからずじまいなのだ。黎基の心を察することはできない。
祥華は今、馬の背に揺られながら悲しみに浸っているだけだ。
――しばらく走っても、欣史俊は合流しなかった。
もちろん、しない方がいいのだが。
祥華と兄が欣史俊の部下によって連れていかれるのは、
橋へ近づけば近づくほど、剣呑な気を感じた。
まっすぐに渡された橋桁の先には軍が待ち構えている。民兵などの不慣れな者ではない、歩兵とはいえ鎧を着込んだ兵だ。
「そこの一行、止まれ!」
物々しい軍隊が、一行を止める。しかし、こちらは少数で、それも非武装の一行である。強い警戒は抱かれなかった。
橋の手前で一行が馬を止めると、瞬く間に周囲を兵に囲まれる。この兵たちは同じ奏琶国の者たちであるのに、味方とは言えないのだ。
欣史俊の部下はというと、へりくだって見えた。
「私共は欣史俊御史の配下にございます。よもや、秦
欣史俊の部下たちは、本気で驚いているふうだった。
軍中で羽扇を手に佇んでいるのは、姿のよい青年だった。
美しいと表現しても差し支えない容姿で、長くまっすぐな髪が背中にまで届く。黒衣と相まって神秘的な印象を受けた。
一見呪い師のようにも見えたが、『左丞相』と呼ばれた。
これは、秦貴妃の一族の者。
秦謹丈はほぅ、とため息をついた。軍の無骨さとはそぐわない雅な姿だ。
「ああ、欣御史の。それで、その者共は? 見たところ罪人のようですが」
見た目の優美さ通り、秦謹丈は慇懃な口調だった。
縛められているのだから、兄妹は罪人と見られても仕方がない。祥華はグッと我慢した。
「ええ、欣御史の
すると、秦謹丈はふと祥華と兄を見遣る。しかし、長く目を留めることはなかった。あまりに興味が薄い。
見るからに貧しそうな二人だ。盗みか人殺しと見たのだろう。そんなことは珍しくもなんともないと。
「時に、ここへ来る前に儀王薛黎基の軍と出くわしたのではありませんか?」
この時、秦謹丈は敬称もつけずに黎基を呼んだ。その不敬に祥華は目を見開いたが、祥華にこの男を屈服させることなどできない。
官人たちもそれが意味するところを考えているふうだった。ここはどう答えるのが適当なのか、保身のためだけに選び取ろうとしている。
「ええ、まあ――」
時間を稼ぎながら答えていた。
「欣御史が挨拶をされています」
秦謹丈はここで初めて興味を覚えたように見えた。
「それならば、彼の目が見えるようになったというのは本当のことなのでしょうか?」
確か、黎基は文で目が癒えたことを先に伝えていた。
ただし、実際に目の当たりにしなければ、それが事実と信じられたものではないのだろう。国内に黎基の目を治せる者はいなかったのだから。
「え、ええ。信じがたいことですが、お見えになるようでした」
官人は言葉を選びながら答える。秦謹丈は、鷹揚にうなずいてみせた。
「事実ですか。霊薬アムリタの効力はそれほどまでに素晴らしいものであったと。どのようにして作られたのか、興味は尽きませんね……」
つぶやきながら何かを考えているふうであった。
黎基が心配していたように、霊薬を我が身可愛さに献上せずに使用したことで反意ありと見られる可能性があるということか。黎基にしてみれば、どのみち戦うつもりなのだ。問い詰められても答えは変わらないだろう。
「私がここへ遣わされたのは、儀王薛黎基に謀反の疑いありとされてのこと。真偽のほどを確かめるのが私の役割にございます」
「む、謀反と!」
官人たちは大仰に驚いていたが、ことの真偽よりも、そういう名目で目が見えるようになった黎基を葬りたいのだろうと察したはずだ。
誰にだってわかる。それくらい、秦謹丈は邪悪だ。薄い唇が浮かべている笑みには残忍さしかない。
「あなた方は彼と関りもないでしょう。斥候だと疑ってはおりませんよ」
通してくれずともよいのに、ここで止められないらしい。
川の流れが、祥華の激しい心音を掻き消す。
ずらりと兵が道を開けた。息苦しいほどの圧迫感を覚える。これから、この兵が黎基たちに襲いかかるのかと思うと、一兵でも減らしたい思いだった。自国の皇族に刃を向けるのを彼らはそれぞれどう思っているのだろう。
この時、欣史俊の部下は、自分たちが連れている兄妹が黎基と少なからず因縁があることを黙っていられなかった。後で責任を問われるのが嫌だったのだろう。
「じ、実は――」
ボソボソ、と秦謹丈に兄妹のことを告げた。
秦謹丈はというと、楽しげに笑っただけだった。
「それは面白い巡り合わせですね。今となってはそのような罪状は無意味ですが、そうですね――
そのよい手とやらは、もちろん祥華たちにとってのよい手ではない。利用価値を見出してくれるという意味だ。
こちらを見た秦謹丈の目に、祥華はゾッとした。
ダムディンやバトゥたちとも違う冷たさがあったのだ。恐ろしいとしか思わない。
慌てて顔を背けたが、そんな祥華を秦謹丈は気に留めない。
「さあ、どうぞお通りください」
どこまでも慇懃に、優雅に、秦謹丈は笑っていた。祥華たちを乗せた馬がゆっくりと橋の上で歩みを進める。
この時、武人の中にひと際体の大きな騎馬兵がいた。郭将軍といい勝負だと思ったが、それもそのはずであった。
「
祥華はハッとして振り返る。しかし、何かを叫ぶ前に、後ろの馬に乗せられていた兄が目で止めた。
今の自分たちにできることはない、と。
涙が滲むほどに悔しい。郭将軍の弟に、将軍はいつでも優しく正しい人だと言いたいだけなのに。
郭貂絃は無言のまま礼だけして、まだ見えぬ軍がいる先を見据えていた。
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