24◆正体

 朝になり、黎基は昭甫と天幕から出る。

 本当は出たくなかった。ずっと閉じ籠っていたいような気分だった。


 晟伯を捕らえた意味を、展可はどのように受け取っただろう。

 そのことばかりが気になって、眠りにつくのが遅かった。このところずっと、疲れが抜けきらない。


 天幕の外で雷絃が史俊と話していた。何やら取り留めのない話を振られているのか、雷絃が困りきっている。


「……何かあったか?」


 そう声をかけると、雷絃と史俊は恭しく頭を垂れた。かと思うと、史俊は愕然とするような事実を突きつけてきた。


「蔡家の兄妹はすでに京師みやこへ連行致しました。小生もこれから出立し、兄妹にはしかるべき罰を与えますので、ご安心ください」


 黎基だけでなく、雷絃も昭甫も信じられないといった面持ちだった。


「兄妹? 里にいる祥華まで迎えに行ったと言うのか? 祥華のことは罪に問わぬと晟伯とも約束したのに」


 声が震えた。

 そして、勝手な真似をした史俊に対する憤りが腹の底から湧いた。

 しかし、史俊は縮こまるどころか得意げに言ったのだ。


「最初から慈悲などおかけにならずに処断してしまうべき者共でございました。あの兄妹は小生の読み通り、恐ろしいことを画策していたのです。その証拠に、妹はこの軍の民兵の中に紛れ込んでおりました。それを小生が見つけ出したのでございます」


 史俊の言葉に、黎基たちが愕然としたのは当然だ。

 妹の祥華がここにいたと。それは連れ去られた兄を追ってここに紛れ込んだということだろう。

 身内は他にいない二人きりの兄妹なのに、妹から兄を取り上げた。

 惨いことをしたのは黎基の方なのだ。


「私が話を聞く。すぐに二人を連れ戻せ」


 怒りを抑えた声で告げたが、史俊は大仰にかぶりを振ってみせただけだった。


「危険だと申しましたでしょう。妹は行軍のどさくさに紛れ、殿下のお命を狙っていたのでございます」

「何を馬鹿なことを……。兄を案じてここまでついてきてしまっただけだろう」


 この時の史俊は自信満々で、聞き分けのない子供に言って聞かせるようにゆったりと告げた。


「いいえ。この軍の兵士が顔を見知っておりました。ずっとこの軍に紛れていたのです」


 それこそ、愕然とするばかりだった。

 祥華がずっとこの軍にいたと。武真国まで共に赴いたというのか。


 年頃の娘は数えるほどしかいないのだ。あのうちの誰かが祥華なのか。

 展可が親しい、袁蓮という娘を思い浮かべ、違うと否定する。


 そこに行きついた時、ゾッとした。

 何故真っ先に『彼女』を疑わないのかと。

 姜の里から来た――それだけですでに条件がそろっているというのに。


「まさか……」


 絶句するしかなかった。

 しかし、この瞬間にすべてが繋がった。


 黎基のために身を投げうち、尽くしてくれたのは、黎基の目から光を奪ったのが自らの父であると信じていたからだ。その贖罪のために、展可――いや、祥華は黎基の兵として従軍した。


 だからこそ、黎基に正体を知られてはならないと、彼女はそれを恐れていたのではないのか。


 真実に手をかけているつもりが、まるで見当違いの方へ手を伸ばしていた。

 あまりのことに体が震え、叫び出したくなる。口に強く手を当て、必死で感情を抑える黎基を側近たちは心配そうに見遣っていた。


「あの娘は子供の頃の面影が薄れましたので、殿下がお気づきにならずとも致し方のないことかと。しかし、小生は母親の顔も見知っておりますので、母親に似てきたあの娘に気づけたという次第で――」


 史俊は得意げに語るが、黎基は怒りしか感じない。

 黎基の許可なく勝手な振る舞いをすること自体、軽んじられている。史俊は黎基の目が治ったところで皇太子に返り咲くことはないと考えているのだ。そして、昔なじみの自分の言うことならば、最終的には黎基も聞き入れるというのだろう。


 黎基自身、史俊を甘く見ていた。ここまで勝手なことをするとは思っていなかったのだ。

 この件に関してだけは、決して引くわけには行かない。


 目で射るように、黎基は史俊を見た。この時になって初めて史俊は怯んだ。


「私の命を狙っただと? 勝手な憶測だ。あの兄妹はそのような者たちではない」

「え、あ……そ、それは……っ」


 黎基の怒りを、史俊は額に汗を浮かべながら受けた。逆鱗に触れるまで、大人しい穏やかな気質の廃太子だとしか思っていなかったのだろう。

 震えながらも史俊は引かなかった。


「お、恐れながら申し上げます。それでしたら、何故、蔡晟伯を連行されたのでしょうか? 罪がないと思われたのでしたら、里に残せばよろしかったのでは……」


 とっさに何も言えなかった。

 見えているはずの目が、突如光を失ったように眩んだ。あの兄妹が捕らえられたのは、すべてが史俊のせいだと言えたものではなく、そこには黎基の行動も絡んでいる。


 これを言われた時、自らの行いがさらに祥華を傷つけたのだと思い知るしかなかった。嫉妬から晟伯を遠ざけてしまいたいと願い、それが己から彼女を遠ざける結果を引き寄せたのだ。


 黎基はただ生唾を呑み、答えようにも足元が覚束ないような感覚がした。それを雷絃が支えてくれる。


 この時、そんな黎基を救ってくれたのは昭甫だった。

 昭甫はいつもの厭世的な目で史俊をじっと見据え、そうしてひとつ嘆息する。


「欣御史は随分とあの兄妹がお嫌いのようですね。それは過去に少なからず関わったからでしょうか?」


 史俊は明らかに気分を害した様子だった。黎基にならばまだしも、昭甫にまでとやかく言われたくはないのだろう。

 眉根を寄せ、昭甫を睨む。


「罪人など好ましく思うはずがない。それが何か?」


 そこで場違いなほどに、昭甫はフッと軽く笑った。この状況で何がそうさせるのか。


「そうでもありませんよ。あの兄妹を私は存外気に入っております。それから、殿下もあの娘を大層お気に召しておりました」

「何を寝ぼけたことを……っ」


 史俊が不快感をあらわにした時、昭甫は急に史俊を睨みつけた。目上の者だからと敬う気はないらしい。昭甫は鋭く言い放つ。


「晏のむらにいた偽者たちですが、牢にいる彼らにも罰を与えねばなりませんね。殿下を謀ったのですから、極刑が妥当でしょうか」

「それは……っ」


 心構えがなかったのだろう。史俊は素で驚いていた。

 昭甫は遠慮なくその隙を突く。


「私は殿下と共にあの偽者たちと会いました。偽者の青年と欣御史は似ておられます。こうして目の当たりにしてみると、鼻の辺りが同じですね」


 黎基はもう、偽者の顔など覚えてもいない。しかし、昭甫は違った。二人の間に何かの繋がりを見出したらしい。


「そ、そんなことは……」


 史俊は鼻を押さえ、言葉を失った。

 何かを隠している。史俊はその隠し事が黎基に伝わるとは思わなかったらしい。

 黎基は彼を、力を込めて見据えた。


「正直に申せ。お前は何を知っている?」


 幼い黎基が蔡家の者たちのために施したとしても、それが本当に届いているのかを確かめに行くことはできなかった。盲目となれば尚更だ。


 誰も黎基の目が見えるようになるとは信じていなかっただろう。

 確かめられることはないと考え、悪事を働いた。それが史俊なのだ。

 昭甫はそこに確信を持った。


「そ、それは……」


 蛇に睨まれた蛙のごとく固まった史俊に、黎基は腰に佩いた剣を抜いてみせた。


「戦帰りだ。気が昂って仕方がない。慈悲は期待するな」


 冷え冷えと吐き捨てると、史俊はその場にひれ伏す。丸い、贅肉のついた背中だ。

 黎基が史俊を信じ、そのせいで蔡家の兄妹がさらなる苦汁を舐めたのも黎基の責任である。


「あ、あの兄妹は連れ戻します。どうか、どうかお赦しくださいっ」


 この時、昭甫は最早、人を見るような目つきをしていなかった。蔑みに満ちた顔を史俊に向けている。雷絃はただ悲しそうだった。


「欣御史が手をつけた女を、子供共々と住まわせたといったところでしょうか。蔡晟伯は本当のことなど何も知らない様子でしたが、すべての罪を背負わせてさっさと葬ってしまった方が安心ですからね。欣御史はそのためにわざわざ、この軍に近づいたわけですか」


 黎基は史俊を昔から知っていた。だからこそ目が曇っていた。

 無意識のうちに疑うべきではないと考えてしまっていた。昭甫はそうした余計なことを考えずに正しい姿を見た。


 史俊はカタカタと震えて赦しを乞うばかりだった。その様子が昭甫の推測の正しさを表している。

 黎基は、斬りかかりたい衝動を抑えながらかぶりを振った。


「いつからだ? いつから私を裏切っていた?」


 史俊はひたすらに額を地に擦りつけている。しかし、そんなことで赦すつもりはない。その背を踏みつけた。


「いつからだと訊いている」


 ぐぅ、と史俊の肺腑の奥底から呻きが漏れる。足の力を抜くと、史俊は下を向いたまま細々とつぶやいた。


「あ、あの、十年前、離宮に遣わされた……半数は秦太師の息のかかった者、でした」

「お前もか?」


 靴底に憎しみを込めて蹂躙する。

 史俊のことを一度は信じていた。その信用を裏切った上、十年も騙し続けたのだ。信じた己が愚かだとしても、到底赦せない。


「ど、どうかお助けください! 私はこれから心を入れ替えて――っ」


 羅瓶董の時もそうだった。

 世の中にはどうしようもない人間がいる。改心などするつもりもないくせに、平気でそれを口にする。

 これから、ではすべてが遅いのだと何故わからないのか。


「では、お前のことを助ける代わりに、お前の子供たちとその母親に罪を償わせるが、それでよいか?」

「えっ?」

「お前は生きるために血を分けた子供と、情をかけた女の命を差し出すか?」


 黎基の鬼畜のような問いかけの答えを、史俊はすでに心のうちには持っている。ただし、それを口にした途端、黎基の剣に首を刎ねられるのもわかるから、何も言えぬのだ。

 ただガタガタと震えている。


「お、お赦しください! どうか、どうか!」

「どうした? 嘘は得意なのではないのか? ……嘘でも、自分の命と引き換えに子供たちを生かしてくれとは言えぬらしいな」


 十年前、蔡桂成は黎基に懇願した。

 妻と子供たちのことだけは助けてほしいと。あの目に嘘はなかった。

 死の淵に立ち、それでも家族を思い遣った。その桂成のことも、この男は陰でわらっていたのだろう。


 黎基は史俊から足をどけた。

 赦すのではない。時が惜しいだけだ。


「あの兄妹は私が取り返す」


 祥華にも晟伯にも、勝手だと言われてしまえばそれまでだ。

 しかし、展可が祥華ならば、並々ならぬ決意をして黎基のもとへやってきたはずなのだ。


 初めて声をかけた時に流した彼女の涙にどれほどの想いがあったのか、それを考えるだけで体中が軋むように痛い。


 あんなにも純粋な娘を嫉妬で傷つけた。自らの愚かしさを悔いるよりも、まずは彼女を取り戻さねばならない。このまま間に合わず、もし処刑されるようなことになっては――。


 そんなことは、この国がほろぶ以上にあってはならない。

 祥華が赦してくれずとも、黎基は詫び続けねばならないのだから。

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