22◆晟伯という青年

 晟伯の扱いは罪人のはずが、雷絃は客人に接するように丁重に扱った。史俊によって手枷を嵌められた晟伯を気遣い、自身の天幕へ入れた。

 それを史俊は不服としていたが、雷絃のような武人を前にして強くは言えないようだ。


「私も一度彼と話をしてみたいと思っておりました」


 そんなことを言い、昭甫も雷絃と同じ天幕へ行く。

 展可を遠ざけてから、黎基の天幕には昭甫がいたので、しばらくの間、黎基の天幕は寂しいものだった。


 もし秦一族の放った刺客がいるのなら、今の黎基は隙だらけだというのに、本当に誰も来ない。

 あれから展可も黎基には近づいてこなかった。それも当然ではあるが、以前のようにそばにいないことを切なく思う。


 そして、晟伯がここにいることで、展可は彼と接触しようと試みるだろう。晟伯には常に誰かがついているが、それでもどうにか会おうとするに違いない。


 二人が共にいるところを見たら、とても冷静ではいられない。

 それとも、目撃したら踏ん切りもつくだろうか。

 彼女のことは諦めるしかないのだ。展可の心は手に入らない。手が届くところにあるように見えて、その実とても遠いのだから。


 はぁ、と嘆息して両手で顔を覆った。

 今から命を懸けた戦いを挑むというのに、いつまでも別のことに心を奪われている。こんなことでは何も為せない。国を治めるに相応しい自分ではない。


 わかっていても、己の他には誰もいないのだ。

 秦一族から実権を取り返さねば、待つのは滅びの一手なのだから。


 展可がもし傍らにいてくれたら、どんな敵にも負ける気はしなかった。秦一族よりも晟伯の方が手強いのかもしれないと考えて自嘲する。

 展可を手に入れるのは、玉座に腰を据えるよりも難しいことなのかと。



 ――しばらくして、昭甫が戻ってきた。

 晟伯と何を話したのかが気になるけれど、それを素直に訊けない。

 すると、昭甫は床几に腰かけるなり、ほぅ、とため息をついて言った。


「なんというのか、欲のない青年です。策瑛も無欲ですが、ああいう無邪気さとはまた違って、もっと芯が通っていながらも、それでいてつかみどころがないのです。まるで仙人を前にしているようで、自分がひどく汚れているように感じられました」

「実際、お前は清らかではないからな」


 そんな軽口を返したが、昭甫の言葉にほっとしていた。晟伯を前にすると、己が俗物に思えるのは何も黎基だけではないのかと。

 昭甫はくつくつと笑う。


「そこは否定しませんが。まあ、彼がなのはし方のせいでしょう」


 頼れる親を亡くし、妹を護るために生きてきた。だからこそ、早くから子供ではいられなくなったのだ。

 晟伯は祥華のことだけを案じ、護ろうとしているように見えた。そこに展可――桃児への想いは感じ取れない。


「それで少し話をしました。蔡晟伯が言うには、天河離宮でのあの出来事があってから、すぐに一家は家財を持ち出すこともできないまま姜の里へ送られたとのことでした。晏のむらになど立ち寄りもしなかったそうです。ですから、もちろん殿下からの施しなど一度も受け取っていないようでした」


 欣史俊は、晟伯が嘘つきだと言う。

 しかし、こんな嘘をつく必要がどこにあるというのだ。冷静に考えると、一家が姜の里へ行ったがために用意された家も銀子も、そっくりそのまま浮いた。そこに目をつけた者が偽物を置いたのであって、晟伯は本当に何も知らなかったという可能性もある。


 晟伯は何も悪くないと認めたくない心が、その思考の邪魔をしてしまうのだ。

 そんな黎基の心を読んだのか、昭甫が言った。


「蔡晟伯に愽桃児という娘を知っているかと問うたところ、自分の手伝いをしてくれていた娘だと答えました。ただ、その様子には特に熱も籠っておらず、何故そのようなことを私が問うのかを不思議がっているだけでした。彼は特異な運命に翻弄されている自分に、連れ合いなど求めていないのでしょう」


 展可が一方的に晟伯を慕っているに過ぎないのか。

 晟伯にとって何よりも大事なのは、妹の祥華だけなのかもしれなかった。


 そこに思い至ると、そんな心優しい晟伯を散々な目に遭わせてしまったという後悔が湧いた。


「……展可はどうしている? 晟伯に会おうとしているのではないのか?」

「さあ? 気にはしているのでしょうが。それにしても、彼をむざむざ国外追放にするなど、ただの損失です。このままでよいのですか?」


 黎基が抱いているのはただの嫉妬だ。晟伯は悪くない。

 いい加減にそれを認めて、展可のことを諦めてしまえばいいのだ。そうしたら、心はもっと軽くなる。

 本来自分が集中すべきことへ向かえるというものではないのか――。

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