21◇どうして

 軍が進行を止めて待機となった際、黎基は郭将軍を連れ軍から少し離れたようだった。秦一族が待ち構えていないか偵察に出ただけなのだろうか。


 この辺りは姜の里が近い。展可が落ち着かない理由はそれだった。

 まさかと思う反面、それでも胸騒ぎがするのは、今になってあの官人の男、欣史俊と出くわしてしまったからだ。


 劉補佐は残されており、静かに床几に腰かけて待っていた。

 ただし時折、遠くにいる展可の方へ目を向けている。何か言いたげな視線だった。


 あの欣史俊は黎基についていったらしく、ここにはいなかった。おかげでひと息つけたけれど、今度は劉補佐の視線が気になる。

 しかし――。


 黎基が馬に乗って戻ってきた時、展可は息が止まるような衝撃を受けた。

 黎基の傍らには欣史俊がいて、その逆隣りにはいつものごとく郭将軍がいるのだが、郭将軍が馬に一人の青年を乗せている。

 その痩躯の青年は、間違いなく兄の晟伯であった。


 展可はとっさに人の背に隠れた。そこから兄を見遣るけれど、兄はこれといった感情を浮かべずにいる。一体何故、ここに連れてこられたのだろう。蔡家の者は姜の里を出てはいけないのではないのか。


 ドキドキと心臓が潰れそうに痛い。胸元を押さえながら展可は様子を窺った。

 黎基は馬上から降りて馬を預けると、辺りを見回して誰かを探しているふうだった。劉補佐ではない。劉補佐はすでに近くにいる。とても険しい顔をして。


「殿下、これは一体どうされたのですか? この者はもしや……」


 黎基も厳しい表情をしていて答えない。

 兄を馬から降ろした郭将軍が代わって言う。


「こちらは医者の蔡晟伯殿だ」


 劉補佐の口元が、やっぱり、というふうに動いた。

 兄は落ち着いていて、神妙に頭を垂れた。


「罪人風情に敬称など不要にございます。私は、将軍にそのように呼ばれる身にはございません」


 しかし、郭将軍は兄を案じてくれているように見えた。


 何故、今になって黎基は蔡家の者に会おうとしたのだろう。目が見えるようになったから、それを兄妹に伝えに行ったはずが、そこには兄しかいなかった。

 情けをかけて匿ってもらったというのに、蔡家の娘が生涯里を出ないという約束を破ったことが露見したのか。


 兄は自らを罪人と言った。それが証拠ではないのか。

 妹がいなかったことを咎められ、兄は罪人として連行されたのなら、すべて妹である自分のせいだ。

 絶対に兄にだけは迷惑をかけたくなかったというのに――。


 そして、兄が連れてこられた以上、展可が『蔡祥華』であると知れる時もすぐそこだ。

 膝からくずおれそうになるのを、誰かがすかさず支えてくれた。


「何よ、具合が悪いの?」


 袁蓮は思いのほか力強かった。

 友人の頼もしさに展可は不意に泣き出したくなって、それを必死で押し留めた。


「う、うん、少しだけ……」

「それなら休みなさい。今に出立かもしれないけど、歩けないならきっと策瑛が負ぶってくれるわよ」

「ううん、歩ける」


 袁蓮や策瑛のことも騙している。展可に関わると二人にも迷惑がかかるかもしれない。これ以上甘えては駄目だ。


 この時、欣史俊の甲高い声が遠くでした。


「では、この男は小生が見張っておきます!」


 ガシャン、と兄の手に素早く枷をはめ込んだ。郭将軍と劉補佐は目を剥いている。

 黎基はというと、どこか痛みを伴うような顔をしていた。せっかく救ったはずの兄妹に裏切られた気分なのだろうか。


 けれど、一向に展可を捕まえに来ない。展可もまた連座すべき――いや、展可の方が余程罪は重いはずなのに。


 とにかく罪状を詳しく知りたい。誰に訊けば答えてくれるだろう。

 これから兄はどうなってしまうのか、不安で体が冷えていく。展可が従軍などせずに大人しく里にいればこんなことにはならなかったのだ。


「欣御史、縛めをお解きください。晟伯殿は暴れたりなどしません。私が預かりますので」


 郭将軍が庇ってくれた。鶴翼から展可が言ったことを伝え聞いてくれたのかもしれない。

 しかし、欣史俊は大きく首を振った。その様子が勝ち誇ったように見える。


「いいえ、殊勝な顔をしてみせているだけでございます。殿下に何かあってからでは取り返しがつきません。何せ、この男はあの蔡桂成の息子なのですから」

「欣御史は職務にお戻りください。こちらも京師みやこへ行くのですから、彼のことは我々が連れてゆきましょう」


 劉補佐も口を挟んだ。

 しかし、欣史俊にとって劉補佐は黎基の腰巾着でしかない。どこか軽んじているのが傍目に伝わる。


「それでは時がかかりすぎる。急ぎ、連れていかねば」

「急ぐほどのことがございますか?」

「罪人なのだから、当然だ」


 展可は気が遠くなりそうだった。

 今になって、積もっていた雪が溶けて現れたかのようにして罪がさらされる。もしや、欣史俊が黎基に何かを吹き込んだのだろうか。


 ――わからない。何故、こうなってしまったのか。

 展可の正体はまだ知られていないのか。

 だとしても、名乗り出るべきだろうか。手に枷をして、兄の隣に。


 もしくは、どうにかして兄を救い出して二人で逃げようか。

 そんなことができるはずもないのに。


 それでも、とにかく兄と話したい。隙を見つけてまずは兄と話をしなければと、展可は気を確かに強く持った。

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