20◆邂逅

 軍は姜の里へと近づいていく。

 最初から黎基は、軍のすべてを引きつれて赴くつもりはなかった。途中で待機し、少数だけで里へ向かう。

 この時、展可を連れては行かない。


 もういいと口では言いながら、顔もまともに見られないくせをして、まだ帰してやる心の準備ができていない。情けないとしても。


 今、黎基の傍らには昭甫と史俊がいた。史俊は久しぶりで懐かしいと思う反面、こうした男だっただろうかという気にもなる。


 秦一族に脅され、黎基のところへ偵察に来たという可能性もなくはない。完全に気を許してはいないが、昭甫は黎基以上に何かを気にしていた。雷絃の顔もどこか厳しい。


 里までそれほどの距離はない。それでもやはり、短時間とはいえ軍から昭甫と雷絃の両方を離すわけにはいかず、今回は昭甫を残す。昭甫は雷絃と少し話していた。さいけいと騎馬兵の半分を置いていく、といった旨を伝えている。

 チヌアと武真兵のことは、里人を不必要に怯えさせたくないので待機していてもらう。


 黎基は、考えなくてはならない最たることを置き去りに、晟伯のことばかりを考えていた。

 これから十年ぶりに彼に会う。いつかは会いたいと、会って和解できたなら嬉しいと感じていたことが嘘のように、今は好ましく思えない。


 それでも、会う。

 会わずにはいられない。



 黎基は雷絃と史俊、騎馬兵と共に馬を駆り、姜の里へと向かった。史俊は旅慣れているわりには馬を走らせるのが遅かった。騎馬兵たちと比べるからそう思うだけかもしれないが、史俊に合わせることはせず、遅れるままにしておいた。

 姜の里から従軍してきた者たちを乗せた騎馬も相乗りのため、同じように遅れている。


 気持ちが逸る。あれから十年――。

 晟伯もまた、十年経った黎基をどう見るのだろう。


 姜の里の囲いは簡素で、獣の侵入くらいは防げたとしても敵兵から身を護ることはできないような代物だった。ここへ来るまでの道のりにも目立ったものは何もなく、ただ平野が続くばかりだった。そんな寂しい場所にポツリと在る寂れた里。


 ここで展可は育った。何もない、のどかなこの地で。

 展可の故郷を踏み荒らすつもりはない。ただ、黎基は晟伯に会いに来ただけだ。


 軍旗を見て、里人たちも敵兵でないことだけはわかったはずだ。里人たちは何事かと恐れつつも表へ出て、家の前でひざまずく。

 誰の軍であるのかまで理解しているとは思えなかった。善良で無知な田舎の人々が武力にひれ伏しているだけだ。


 この時、雷絃が馬を進めた。


「こちらにおわすのは、儀王薛黎基殿下である。京師みやこへの帰還途中、所要がありこの里へ参られた。里長は何処だ?」


 偉丈夫の雷絃の声に里人たちが恐れ戦く。威嚇しているわけではないが、武人に馴染みがないのだろう。


 慌ててやってきたのは、小柄な老人だった。これが里長で、ついてきたのはその息子といったところか。


「こ、これは……儀王様がこのように寂れた地においでくださいますとは……。私めが里長のそくこうと申します」


 どうということもない、ごく平凡な老人である。黎基の目が見えることを訝っていたとしても、そこを訊ねては来なかった。黎基は馬上から言う。


「この里に蔡晟伯とその家族がいると聞いた。真か?」


 ざわ、と里人たちが騒ぐ。それだけで本当なのだとわかった。晟伯はここにいる。


「そ、それは……おりますが……」


 何か言いづらそうにしている。含みのある言い方に、黎基は眉根を寄せた。里長は地にひれ伏したまま、切れ切れに言う。


「蔡家の、晟伯たちの母親は、ここへ来てしばらくした後、泉下せんかの客となりまして……すでに亡いのです」


 兄妹の母は亡くなったと。心労からだろうか。

 顔も知らないが、そこに責任を感じないわけではない。


「それは気の毒にな。気苦労も多かったことだろう。……それで、晟伯はどこだ? 彼をここへ」

「はっ」


 里長は、あの一家の抱える事情を知らないのではないだろうか。何か仔細ありげな母子が越してきたと思っていたに過ぎない気がする。

 黎基と彼らの繋がりなど推測できるものではない。


 里長の息子らしき男がその場を離れた。

 ――心臓が痛むほどに脈打つ。目を閉じて待つが、それくらいで心が落ち着くことはなかった。


 しばらくして再びまぶたを開くと、遠くから歩いてくる男の姿が見えた。背が高く、細い。若竹のような男だ。

 今度こそ間違いない。あれが晟伯だと、遠目ですら黎基は認めた。


 近づくにつれ、面影が蘇る。

 十年経って大人になったが、あの少年の頃と印象はそれほど変わらない。粗末な衣を着ているのに、だからといって不思議とみすぼらしいことはなかった。


 晟伯は馬上の黎基に目を向けるなり瞠目していた。黎基の顔を間違いなく知っており、目が見えることに驚いているのが伝わる。

 本物だと、お互いが認め合った瞬間だった。


 晟伯は黎基の正面に膝を突いてひれ伏した。言葉がないのは、発言を許されるまで声を発してはいけないと思うからか。


「……晟伯だな?」


 黎基の声に親しみはなかったかもしれない。それでも、晟伯は落ち着いて見えた。


「はい。蔡桂成の長子、蔡晟伯にございます。御目に光を取り戻されたのですね。私がこのようなことを申し上げて赦されるとは思いませんが、心よりお慶び申し上げます」


 その言葉にきっと嘘はなかった。だから、黎基はそれについて何かを言うつもりはない。

 訊ねたいのは別のことだ。


「何故、この里にいる? 私は、生涯あんむらから出ずに暮らせと申しつけたはずだ」


 この時、晟伯はハッとして顔を上げた。しかし、それが不敬だと気づいたようで、すぐにまた頭を垂れた。

 その頭に向け、黎基は声をかける。


「よい。面を上げ、答えよ」


 何を考え、どのように晟伯が生きてきたのか、それを知りたい。

 そして、展可は彼のどこに惹かれたのだろうかと。


 はっ、と小さく答え、晟伯は顔を上げた。

 とっさに黎基の方が目を逸らしたくなった。

 まっすぐに向けられた晟伯の顔からは、疚しさのようなものがどこにもなかったのだ。むしろ、黎基の方が腹に力を込めて耐えなければならなかった。


 彼らの父は、本当のところはなんの咎もない。冤罪なのだ。

 それを黎基が知っていて黙っている。己が生き残るために見殺しにした。

 その事実を胸に秘めている黎基の方が余程疚しく、晟伯の清廉さに気圧されるようだった。


 黎基は蔡桂成のことに加え、嫉妬心も抱えている。むしろそれこそが、晟伯に会わねばと強く思わせた理由だ。


 しかし、会ってみてどうだ。晟伯の粗探しをしようにも、それをする自分がかえって惨めになる。

 晟伯は落ち着いて言った。


「私たち一家はあれからすぐに、この姜の里へ連れてこられました。晏のむらへ赴いたことは一度もございません。最初からこの地で過ごしております」

「最初から?」


 晏のむらへは一度も行っていないと言う。これはどういうことなのだ。

 なんの手違いがあってそのようなことが起こったのか――。


 この時、今になって史俊と、帰還した姜の里の者たちが到着した。

 史俊は滝のような汗を流しながら黎基のそばへ来ると切り出した。


「で、殿下、この男のことは小生にお任せください!」

「どういうことだ?」


 黎基が顔をしかめると、史俊は小刻みにうなずく。


「本来でしたら、あの一家はすでに処罰されていなければならないのです。いかに殿下ご自身のお申し出であろうとも、国内に留め置くには少々法を曲げねばならぬこともございました。すべては秘密裏に行われ、この者たちは隠されたのです。我が国に存在してはならぬ身でありながら、この者はそれをまるで弁えておらず、こうして勝手に振る舞うようではいけません。この男はやはり、国外追放するよりございません」


 滔々と史俊が言い募った。

 罪を罪とも思わず、言いつけも守れないようなら、最初の予定通り国外追放が適当だと。


 しかし、本当は桂成にも、もちろん晟伯にも一切の罪はなく、それどころか黎基にとっては恩人だ。そのことを黎基が認めさえすればいい。


 晟伯は最初からここに連れてこられたと言った。史俊はその言葉を信じないらしい。認めてしまえば、関わった自らの不手際になるとでも思うのだろうか。


 以前から嘘をつく少年であったと、そうは言うが、こうして目の当たりにしている晟伯からはそのような小狡さは感じ取れない。むしろ潔く、父の桂成によく似てきた。

 晟伯の目を見ていると、亡き桂成に見られているような気持ちになって心苦しい。


「過去の罪だ。私の目も癒えた。今さら国外追放など――」

「いいえ、罪は罪にございます。小生は確かに、晏のむらを出るなと最初に申したのです。その言いつけを守らなかったのは、当人の咎にございます」


 晟伯は静かにそのやり取りを聞いていた。怒るでもなく、怯えるでもなく、静かにそこにいる。

 その静けさが不気味だった。彼は今、何を考えているのだろうか。


 この兄妹に対して罪悪感だけを抱えていたはずが、展可が関わったことによって拗れた。晟伯が国外追放となれば、展可とは引き離される。会うこともできなくなる。そうなればいいと、どこかで考えてしまっている自分が、史俊の言葉を強く跳ね除けられない。


 あまりに浅ましく、それが自分の本心かと思うと苦痛ですらあった。

 晟伯がゆっくりと薄い唇を開く。


「私がここにいることが罪だと仰るのでしたら、わかりました。従いましょう。けれど、妹だけはどうかご寛恕くださいませ。あの子は……殿下にお会いした幼い頃からずっと、殿下の御身を案じぬ日はございませんでした。本当に、叶わぬことと知りつつも、御不自由な思いをされている殿下のお役に立てることだけを夢見ていたのです」


 それを聞き、黎基も胸が痛んだ。

 祥華がそんなふうに案じてくれているとは知らなかった。父のせいで黎基が失明したと信じているからこそなのだとしても、それでも気にかけていてくれたというその一点を疑うつもりはない。


「……わかった。祥華はこの里で変わりなく過ごすがよい」


 それを言うと、史俊がぎょっとして黎基を見た。


「殿下、それでは――」

「よいのだ。晟伯が背負うと申すのだから。か弱い娘一人残したからといってどうということもなかろう」


 それでも、兄まで奪われてはさすがに祥華も黎基を恨むだろうか。

 祥華のことも追放したかったのか、史俊の顔は険しかった。しかし、黎基の手前、諦めた。


「では、この男を縛め、小生の馬へ乗せ――」


 そう史俊が言いかけた時、それを雷絃が遮った。


「いや、私が乗せましょう。私ならば彼が抵抗したところで抑えられます。……抵抗したとしたら、ですが。縛めも要りません」


 雷絃は黎基が失明していなかったことを知っている。そして、この兄妹を気にかけていたことも。

 だから、この流れはよくないと思ったのだろう。


 史俊は一度動きを止め、それから緩慢に言った。渋々というのが伝わる。


「ええ……では、お願い致します」


 晟伯は一切抗わなかった。雷絃は彼を前に乗せ、まるで客人にするようにして丁重に扱った。


 里を出る時、里人たちは晟伯のことを心配そうに目で追っていた。晟伯がこの里に根づき、医者として必要とされていると感じ取るには十分だ。


 とある若い娘が何かを訴えかけ、周囲に抱きすくめられる形で抑えられていた。顔がよく見えなかったが、あれが祥華だろう。連れ去られていく兄をどのような思いで見送るのか。


 黎基は、祥華に会っても懐かしいとすら思わなかった。展可に会う前に祥華に出会えていたら、もしかするとまた違ったのかもしれない。


 ――展可は、自分の想い人が罪人のようにして引き立てられてきたことをどう思うだろう。

 久々の対面がこのような形になったとは皮肉なものだ。


 物思いにふけりながら馬を歩かせる黎基に、近づいた史俊がポツリと言った。


「先に申し上げました通り、あの男は生来の嘘つきなのでございます。すべてを鵜呑みにはされませんように」


 祥華が黎基を案じていたなどというのも嘘だと言いたいのだろうか。

 それならそれでいいのだ。嘘ならば罪悪感を覚えずともよいのだから。

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