19◇頼み事
展可はあの官人の男に顔を見られぬよう、なるべく後ろに下がって人に紛れた。
あの官人はなかなか去ろうとせず、長く黎基と話し込んでいるらしい。
これから黎基が為そうとしていることを、あの官人はどこまで知っているのだろうか。黎基がそれを話し、味方に引き入れようとしているのだとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
あの男は信用ならない。
あんなに冷たい目をしてるのに、裏切りと無縁だとは思えない。
必ず黎基を裏切る。そんな気がしてならないのだ。
それでも、あの男を黎基から引き離す手段がない。
少し前ならまだしも、今の展可は黎基の信用を失ってしまっている。確たる証拠もなく、直感だけでは取り合ってもらえないだろう。
あの男を信じ、黎基が足元をすくわれるようなことにならなければいい。
展可はそれを祈るしかなかった。
――ただ、ひとつ救いがあるとすれば、郭将軍や劉補佐は以前と変わりなく展可に声をかけてくれていた。腹心二人の言ならば黎基も耳を傾けてくれるかもしれない。
展可は鶴翼を捕まえると、そのきょとんとした童顔に向けて真剣に言った。
「鶴翼、よく聞いて」
「えぇ?」
相変わらず鶴翼はとぼけているが、この際贅沢は言えない。展可は鶴翼の両肩をつかんだ。
「あの合流した官人、怪しいよ。ああいう顔をした人は裏切る。証拠があるとかじゃないんだけど、警戒しておいた方がいい。ねぇ、郭将軍にそれとなく注意するようにほのめかしてくれないか」
鶴翼は少し首をかしげたが、そこに疑問を差し挟まなかった。
「いいよ」
とても軽く返事をしてくれた。本当にわかってくれたのかと展可が不安になるような笑顔だったが、ぼんやりとして見えて鶴翼は馬鹿ではない。きっと、わかってくれたと信じたい。
「ありがとう、鶴翼。これはとても大事なことだから」
「うん。僕もあの人嫌いだ」
鶴翼なりに何か感じたのだろう。展可は苦笑する。
「そうだね。何事も起こらないといいけど」
それは無理な願いかもしれない。
これから父子が帝位を争うことになるのなら、穏やかに済むはずはない。だからこそ、余計な心配事は増えないでいてほしかった。
このすぐ後のこと、姜の里の皆が集まっていた。
ここから姜の里は近い。故郷を前にして、立ち寄りたい気持ちを抑えがたいのだろう。
ここに師父がいてくれたらと願わずにはいられないが、考えるだけ虚しい。二度と会えない人なのだ。
展可も兄に会いたいと渇望している。
けれど、兄の顔を見たら張り詰めているものがプツリと切れてしまって、もう立ち上がれないかもしれない。黎基の不興を買ってしまった今、すべてを忘れて兄のそばで甘えて過ごしていたいと願ってしまう。
だから、兄に会うのは戦がすべて片づいてからでなくてはならない。
しかし、この時、皆は意外なことを言った。
「姜の里から従軍している者は里へ帰るようにと告げられたよ。まあ、全さんもいないし、まともに戦力になるのは、しょ……展可だけだから、連れていっても兵糧が減るだけだもんな」
「姜の里だけ?」
思わず問い返した。皆がそろってうなずく。
「展可だけはやっぱり言われてないんだな」
「そうか。悪いな、俺たちだけ離脱して。本当ならお前を真っ先に帰してやらないといけないのに」
そんなことはない。展可は自分の意志で残っているつもりだ。
戦えない里の皆が安全な場所に帰れることは望ましい。それはいいけれど、何故姜の里
この時、展可はあの晩の黎基の言葉を思い出す。
兄のことを――蔡晟伯の名を出した。兄の存在を気にしているふうだった。
蔡晟伯がいる姜の里の者は一切信用ならないとでもいうのだろうか。
従軍してからそこにこだわったことは一度もないのに、今になってどうしたというのだ。何がきっかけとなり、黎基は兄のことを思い出し、気にするようになったのだろう。
何か、よくない方へと風向きが切り替わっていくような感覚がした。その恐ろしさに身震いする。
「そういえば、少し前に文を書いたのに。あれが届く前に皆が帰るのなら意味がなかったな。兄さんによろしく伝えて。私は無事だからって」
「文? そうなのか。よかったら届けるぞ?」
「まだ劉補佐が持ってるのかも。いいよ、もう。皆、元気でね」
それぞれと手を握り合った。握り締めた手の力強さから、皆、帰れる喜びと同じくらいに展可のことを心配してくれているのがわかった。
ただ、まだ言われていないだけで、後からお前も帰れと通達されたとしても、展可は帰らない。最後まで見届けるつもりだから。
この時、少しの引っかかりを覚えたのは、劉補佐は皆に文を書かせると言っていたのではなかったかということ。劉補佐のことだから、途中で面倒になってやめたのかもしれない。
だとすると、展可が書いた文もどこかにしまい込まれたままなのだろう。
困った人だと、展可は嘆息した。
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