18◆昔馴染み

 少し前までは展可の姿が見えないと不安だった。

 どこにいるのかを把握したかった。すぐに呼び寄せられるところにいてほしかった。黎基の目は、いつでも自然と展可を追っていた。


 それが今となっては、視界に入れないように意識しなくてはならなかった。

 あの顔を見ると冷静ではいられなくて、こんな自分は皇太子どころか皇帝になど到底相応しくないという気になってしまう。


 展可が悪いのではない。それでも、手に入らないとわかると笑顔すら見たくない。

 幸せを願ってやれない。他の男と――晟伯と仲睦まじく暮らせばいいとは思えない。腹の底にどす黒い感情が凝る。

 そんな自分の凡庸さがどうしようもなく苦痛だった。


「――殿下」


 観察御史の欣史俊の声で我に返る。

 今では出世したが、史俊も十年前は黎基と母の供で天河離宮に来ていた。同行した医者が秦一族の息がかかった者であると見抜き、近隣のむらから蔡桂成を見つけて連れてきたのも彼だった。


 史俊は蔡家の事情を知っているうちの一人だ。

 黎基が懇願すると、信用できる者を集めて蔡家の者たちを逃がす手筈を整えてくれた。

 幼い黎基は、彼らをただ逃がしただけでは暮らしていけないということに思い至らなかった。史俊にそこを指摘され、それから送金を頼んだ。


 あの時の黎基は幼すぎて、他人の手を借りなければ何もできなかったのだ。

 実際のところ、彼らは逞しく自力で生き抜いたようだが。


 床几に腰かけると、史俊はひざまずいた。


あんむらにて、殿下が御来訪なされたと聞き及びました」

「ああ、そこには蔡晟伯たちの偽者がいた。本物はずっと、あそこにはいなかったらしい。当時は史俊も少なからず関わったが、何か知らぬか?」


 すると、史俊がうつむいてかぶりを振りながら、長く息を吐いたのがわかった。


「いえ、当時の私は職務上遠方へ赴くこともできませんでしたので、後は人に託すしかありませんでした。お恥ずかしながら、蔡家の者たちは今もあそこにいるものだとばかり……。先日までは何も知らずにおりました。その蔡家の者たちですが――」

「居場所はわかっている。姜の里にいるそうだ」


 黎基が言うと、欣史俊は肩を震わせた。思わず顔を上げてしまい、それから慌ててまた頭を垂れる。


「そのような近場におりましたか。あの偽者たちが申すには、蔡家の長男に頼まれたのだそうです。自分たちはここに留まる気はない故に、銀子も家も好きにすればいいから、自分たちの名で代わってここで暮らしてくれと……」


 それはやはり、父を死に追いやった黎基の世話にはなりたくなかったということか。名を出して送金していたわけではないが、こんなことをする相手は他に思い浮かばなかったのだろう。


 黎基が傷ついた顔をして見えたのかもしれない。

 史俊が労わるように柔らかく言う。


「しかし、あの一家は罪人の身内です。見つかれば一家もろとも連座するところを殿下の温情によって救われたのでございます。むらを出るなという言いつけに背き、勝手に出奔した責は当人たちにあります。己の立場を弁えぬ所業は、到底庇いだてできません」


 罰するのか、彼を。今さら――。

 その時、展可はどうするだろう。愛しい男を里から連れ去り、処罰する黎基を憎むだろうか。


 暗い感情に流されかけ、黎基はハッとした。

 晟伯には、ありもしない父の罪で苦しみを味わわせたのだ。詫びる気持ちはあれど、恨んでなどいないはず。


 そのつもりが、展可が絡んだことによって歪んでしまったのも事実だ。

 晟伯の行いの些細なことが、とてつもない罪のように思えてしまう。


 どうして勝手にむらを飛び出したりしたのだ。そうでなければ、黎基はもっと容易く赦しを与えることができたのに。

 ――何より、そうしていれば、晟伯と展可が出会うこともなかったはずなのに。


「……一度、彼らには会いに行く。詳しい話は彼から聞こう」


 やっとの思いでそれを言った。

 しかし、史俊は心配そうに黎基を見遣った。


「蔡晟伯にはお気をつけくださいませ。彼は嘘をつきます。……まだ少年の頃、小生は蔡家に彼の父を迎えに何度も足を運びましたが、もっともらしい顔をして小さな嘘をつくのです。一見大人しく真面目な少年なので信じてしまうのですが、大人が騙されるのを楽しんでいた節がございました」


 そうだろうか。

 晟伯が嘘つきだなどとは感じたことがなかった。けれどそれは、九歳の幼子の判断である。六つほど年上ともなれば大人とそう変わりなく感じられたのだ。落ち着いていて立派に見えた。


 しかし、史俊は子供の黎基とは違う側面からものを見て晟伯が嘘つきな少年だと判じたのか。


 ――晟伯が嘘つきだと言われて、ほっとしている自分がいた。

 そんなことはないと、自分が見て感じたことをどうして信じようとしないのか。


 まるで、晟伯に欠点があることを喜んでいるようだ。展可が選ぶ男が、到底敵わない相手ではないと思えて安堵している。


 彼女を手に入れたい気持ちよりも自尊心の方が強いのか。皇族でありながら、ただの医者に太刀打ちできないと示される方が苦しいのか。


 くだらない。けれど、つらい。


「そうか。気をつけよう」


 ポツリ、とそれだけつぶやく。

 史俊は、ははっ、と畏まった。


「小生もお供致します」


 白髪の目立つ、その頭を眺めながら黎基はぼんやりと考える。

 史俊は黎基が物心つく前から世話をしてくれていた女官の弟なのだ。それはそれは優しい女官で、黎基をとても可愛がってくれた。


 彼女は病で職を辞したが、史俊は時折懐かしく姉の話をしてくれるので、幼い黎基はそれを嬉しく思っていた。だから、天河離宮に彼が来てくれて心強かった。


 ――この時、昭甫がいつも以上に渋い顔をしていた。

 思えば、昭甫が史俊と顔を合わせたことはなかったかもしれない。人嫌いな昭甫だから、見ず知らずの官人に会って愛想を振り撒くことはない。だから出世できなかったのだ。

 それにしても、無礼なほどの仏頂面だった。

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