17◇史俊

 展可が恐る恐る黎基のところへ戻ると、郭将軍と劉補佐、それからチヌアもいた。黎基は軽く展可の方へ目を向けたものの、視線は姿を捕えるでもなく上を滑るようにして流された。


 ズキリ、と胸が痛い。

 劉補佐が展可の方へ歩んでくる。そうして、予測通りのことを言った。


「お前は当分民兵の隊にいろ。策瑛のところだ」

「……はい」


 しょんぼりとしてうなずくと、劉補佐はいつものような人を馬鹿にした目をしていなかった。

 多分、精一杯気を遣ってくれている。それがわかる表情だった。


「殿下はああ見えて、まだまだ子供だ。皇太子のまま、最高の教育を受けていたら聖人君子に育っていたかもしれないが、生憎と成り損なっている。時折どうにも馬鹿げたこともされるし、感情に折り合いがつけられないこともある。周りが持ち上げるほどには完璧ではない。がっかりしたか?」


 不敬にもほどがあるけれど、貶しているのとも違う。どこか労わりのようなものが滲んでいた。

 理想を押しつけて失望しないでやってほしいと言いたいのかもしれない。


「いえ、私の方が悪かったのです」

「誰が悪いとか、そう簡単に言えることばかりなら楽なんだがな」


 本当にそうだ。

 世の中、それほど単純にはできていない。


「……では、策瑛たちのところに行きます」

「ああ」


 背を向けた展可の方を、黎基は最早見ていないだろう。そう考えるだけで傷つくなんて、こんなに自分が弱いとは思わなかった。

 ずっと、厳しい暮らしに耐えてきたと思ったのに、心はいつまでも甘えている。



 それから、展可は民兵たちの列に混ざって行軍する。

 この時、皆は歩兵だから足並み揃えるために展可も馬には乗らなかった。何かあった時にすぐに駆けつけられない不安はあったけれど、黎基が望まないのならば仕方がない。


 事情を知っている袁蓮は、ずっと展可の横にいてくれた。何も知らない鶴翼は相変わらずぼんやりしていて、策瑛は少々困惑気味に見えた。


「このまま何事もなく京師みやこに辿り着けるんじゃないかしらってほどには何も起こらないけど、どうなのかしらね」


 と、袁蓮がつぶやく。


「川に架かる橋の辺りで待ち構えているかもしれないって言われていたけど」


 実際、今は穏やかなものだった。この軍には民間人すら近寄らない。



 ただ、この日、昼を過ぎた頃になって官人の男が部下を引きつれて黎基を訪ねてきた。その男の名は、きん史俊ししゅんといった。


「史俊、久しいな」


 展可は遠く、民兵の間からそのやり取りを見聞きした。


「はっ。ご無事のご帰還、心よりお慶び申し上げます。その上、御目が御快癒なさったとの噂は真のようで、幼少の頃より殿下を存じ上げていた小生も感涙に耐えません」


 この声――。

 知っているような気がする。年配の男の声などどれも似たようなものに聞こえるだけかもしれないが。


 やり取りは続いていた。


観察かんさつ御史ぎょしのその方が私のもとへ来たのは、旅の途中ということか? それとも、私に会えと遣わされたか?」


 観察御史――地方の政が滞りなく行われているか見て回り、官吏の不正を弾劾する役職である。そのような役割だから、官位以上に影響力を持つ。

 しかし、声にはおもねるような粘り気がある。

 展可は、この声が嫌いだと思った。


「近くまで来ておりましたところ、報せが入りましたので馳せ参じました。少々お時間を頂けましたら、お話したきことがございます」


 その含みのある言い方に、黎基は軽くうなずいた。


「わかった。あちらで話そう」

「ありがとうございます」


 郭将軍と劉補佐と共に、黎基は欣史俊を連れて民兵たちから離れる。

 その時、展可は欣史俊の皺が刻まれた横顔を見た。年の頃は四十路終盤といったところか。



 ――兄さん、あの人、顔がきらい。

 ――顔は関係ない。



 雷に打たれたような衝撃が体を駆け抜けた。

 十年という歳月が老いさせたが、鷲鼻に小さな目――あの顔は何度も父を迎えに来た官人だ。

 追憶の中に答えを見つけ、展可は震えが止まらなかった。


 欣史俊は展可の正体を見抜くかもしれない。決して近づいてはならない。

 嵐が過ぎ去るのを待つようにして、彼が去るのを待たなくては。顔を見られてはいけない。


 早く去ってほしいと展可は切に祈った。

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