16◇苦い恋

 展可は声を押し殺して泣いて、朝になって天幕を出た。

 いっそ誰もいないところへ行きたいが、逃亡は軍律違反であるから、行けるところなど限られている。話を聞いてもらえる相手も、袁蓮の他にはいないのだ。


 民兵たちが休んでいる、簡素な天幕の前に立つ。

 黎基のために用意されているものとは違い、中にはしんだいもなく、地べたに敷いた敷物の上に雑魚寝するだけなのだ。


 それでも、袁蓮だけは敷物を二枚敷き、隙間風の漏れないところに他よりは少しあたたかくして寝かせてくれている。女の子は体を冷やしてはいけないと、策瑛が気にしてくれるらしい。


 女ばかり集めた天幕に移ってもいいはずが、袁蓮はそうしないのだ。なんでも、美貌を妬まれるとかなんとか。

 つまり、周りと上手くやれなかったらしい。なんとなく想像はつくが。


 はぁ、とため息をつくと、計ったように丁度袁蓮が出てきた。

 その途端に顔をしかめられたけれど。


「あんた、こんな時間に何してんの?」

「……うん、ちょっと」


 小声を零すと、袁蓮は展可の袖を引いて木のそばにやってきた。


「うぅ、朝は寒いわ」


 ひとつ身震いして、袁蓮は展可を草の上に座らせた。そして、背中を合わせて袁蓮も座る。

 冷え込む朝に背中のぬくもりが優しくて、また涙が零れそうになった。顔を合わせずに座るのが袁蓮の優しさに思えた。


「で、なんなのよ?」

「何ってこともないんだけど……」


 話を聞いてもらいたいと思ったはずなのに、いざとなると上手く言えない。

 それでも袁蓮は察しがよかった。


「何もないのに、そんなこの世の終わりみたいな顔になるわけ?」


 そんなにもひどい顔をしているのだろうか。多分、しているのだろう。

 展可は膝に顔を埋めた。


「殿下の御不興を買ってしまったみたい」

「何したの?」


 なんの躊躇もなく袁蓮は訊いてくる。それが彼女らしくもあった。

 答えられず黙っていると、袁蓮は勝手に推測した。


「襲われて拒んだとか?」

「……それに近いかも」


 あの時は、直前に兄の名を出され、ひどく動揺していた。それがなくとも、苛立った黎基がいつもと別人のように見えて怖かった。

 あの状況では少しも冷静でいられなかったのだ。


 袁蓮は、展可を押し潰すように背中を反った。


「あんた、馬鹿ねぇ。ずっと寝起きを共にしていたら、そういう目に遭うのは当たり前でしょ。むしろ今までよく無事だったくらい」

「うん……」


 展可の気持ちが固まるまで何もしないと言ってくれた、あの言葉を信じていた。

 けれど、昨日の黎基はどこかおかしかった。憮然とした様子で、怒りを滲ませていた。


 蔡晟伯の嘆願のために取り入ったのかと、そのようなことを言っていた。自分の正体に肉薄する問いかけに怯えてしまった。


 これ以上は危険だ。

 本当に、正体を知られるのは時間の問題なのかもしれない。


 それとも、黎基はもう展可に興味を失い、そこを追求することさえしないだろうか。そうであればいいのだ。そうすれば、兄にまで迷惑をかけずに済む。


 それでも――。

 涙が止まらない。


 嫌われた。そう考えるだけで胸が抉られる。

 最初から無理しかなかったのに、一緒にいられるはずがない相手なのに、焦がれる気持ちを止められなかった。


 今は、あんなにも優しく包み込んでいてくれたことが幻のようだ。あれは展可が見ていた夢なのだろうか。


 袁蓮は空を仰ぎながら言った。


「あんたって、待ってる人がいるんでしょ? このまま里に帰ったら?」


 これから大きな戦いを控える黎基から離れる。それでいいのだろうか。力になりたくて反対を押しきって出てきたのではないのか。

 嫌われたのが悲しいから、もう力になれないなんて逃げ方をして、父はこんな娘をどう思うだろう。


「……まだ、帰れない」


 嫌がられても、それでも力になりたい。

 口から零れた言葉は正直なものだった。


 袁蓮は背中を揺らした。


「待ってる人がいるっていうけど、それって恋人じゃないわね。あんた、そんなに殿下が好きなら、なんでグズグズしてるのよ?」


 この事情は袁蓮にも言えない。話を聞いてもらっているくせをして、勝手だけれど。


「気持ちだけじゃどうにもならない。家族に迷惑をかけるから」


 あまりに面白みのない答えで袁蓮は興ざめしただろうか。ふぅん、とつぶやいた。


「……まあ、ほんとはね、恋しい気持ちの苦しさはあたしにもわかるのよ」

「袁蓮も?」


 グス、と鼻を鳴らすと、袁蓮がうなずいたような振動が伝わった。


「うん。あたしにだって好きな人くらいいるのよ。その人は、あたしのことなんてなんとも思ってないけど」


 袁蓮のような美少女に振り向かない男がいるとは思えなかった。その人にはすでに決まった相手がいるのかもしれない。展可ばかりでなく、誰もが苦しい気持ちを抱えている。


「それは……つらいね……」

「そうねぇ」


 短い返答の中には確かに、同じ苦しみを抱く響きがあった。


 

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