9◇再びの山越え
まず、遥群を抜けるには
弟山に黎基はいい思いを持たない。展可にしてもそうなのだが、あの時、輿が狼に襲われなければ、これほど黎基と接近することもなかったに違いない。
その方がよかったとも言えるけれど、そばに行けて喜びも感じた。顔も合わさずに里へ帰るだけで満足できたかどうかも、今となってはわからない。
あの時とは違い、展可も今は馬を与えられている。馬を連れて山を越えなくてはならないのは骨が折れるが、皆と同じようにしていればどうにかなるだろう。
ただ、武真兵たちはほとんど山に登った経験がないのだという。武真国は平地が多いので無理もない。
それならば、もしかすると兄谷を通った方がいいのではないかと展可は浅はかにも考えた。岩が多く足場は悪いが、馬が通れるくらいのところはあり、清らかな小川が流れているという。
しかし、劉補佐は頑として兄谷を拒んでいた。
「ただでさえ雪解けの水で水位が高いのに、水辺などもってのほかです。糧車がひっくり返ったらどうするのですか?」
岩場では車輪が上手く回らない。物資を駄目にする恐れがあるからこそ兄谷を避けたいようだ。だとするのなら、今度もまた弟山を通るのは必至。
「狼はもう出ないだろうな?」
郭将軍が渋面でつぶやく。それに対し、劉補佐はさあ、とだけ言った。
こればかりは本当にわからない。あの時、何故急に襲われたのかも謎なのだ。
「出たとしても、皆が警戒しています。前ほど無防備に襲われることはないでしょう」
「それもそうだが、今回はチヌア殿下もおられることだから」
この時、皆に目を向けられたチヌアは怯えた様子など見せず、むしろ輝くような好奇心を面に出した。
「狼ですか? 狩りは好きですし、獣には慣れています」
随分と逞しい反応をくれた。優しげに見えてもやはりというところか。
「それは頼もしいことだ」
黎基もクスクスと笑っていた。しかし、弟山を越えてしまえばそこには『出迎え』がいるかもしれない。
こんなふうに笑ってはいられないだろう。そう思うと、展可はどうしようもなく黎基のことが心配だった。このまま黎基の手を引いて、どこかに逃げ出したい衝動に駆られる。
けれど、本当の自分を知られるのは嫌だ。黎基からの好意が嫌悪に変わる瞬間を、展可は何度か夢に見た。あれが現実になってはいけない。
一歩、また一歩進むたび、別れは近づいていく――。
「展可?」
日が暮れて、いよいよ明日から弟山へ入るという頃。
黎基に名を呼ばれ、驚いて顔を上げる。展可がぼうっとしている間に天幕の支度が済んだようだ。
すでに馬は預けてある。展可は空を見上げていただけなのだ。まだ星は出ていないが、空にいる父母が今の自分をどう思うだろうかと。
黎基は展可の様子を怪訝に感じたらしい。
「すみません、少し考え事をしておりました」
正直に言うと、黎基が優しく慈しむような目を向けて微笑んでくれた。
「その考え事というのが、私のことであればいいのだがな」
そうです、と答えたいけれど我慢する。展可は苦笑するしかなかった。
「この先の戦のことを……。殿下をお護りするにはどうしたらよいのかと不安に思ってしまいます」
「楽な戦いではないが、展可には無理をしてほしくはない。それこそ、私が討たれたとしても展可には無事でいてほしい」
それが本心だとしても嬉しくない。黎基の死に耐えるなんてことは、展可には無理だ。だから、そんなことは口に出してはいけない。現実になっては困るから。
思わず声を荒らげてしまいそうだった。それを抑えたせいか、声が上ずった。
「そんな、縁起でもないことを仰らないでください……」
もし勝ち目がないと思えたら、引き返してダムディン王のところへ行くというのもひとつの手ではないだろうか。
その場合、黎基は奏琶国の親王という立場ではいられないかもしれないが、生きていられるのならその方がいいと考えてしまう。それは展可が女だからだろうか。
男なら、やると決めたことから逃げ出す方が、死よりも悲惨だと考えるのか。
黎基に生きていてほしいのは、展可としても同じだというのに。
二万の兵で勝ち目があるものなのだろうか。何か秘策があるようだけれど、それが上手くいくとは限らない。首尾よく行かないと考える方が正しい気もする。
黎基はそれでも弱々しさはなく、若木のような生命力に溢れて見えた。これから負け戦に臨むとは思えない。
勝機はあるのか。少なくとも、黎基にはその確信があると。
「そうだな。実際のところ、私は死ぬつもりなどない。秦一族を引きずり降ろさねばこの国の未来はないのだからな」
秦貴妃と、その一族はこの国に根を張っている。容易いことではない。
そういえば、十年前、天河離宮に同行するはずだった医者が、よくない繋がりのあると発覚したので父を召したと聞いた。
あの時はその意味を深く考えることができなかったけれど、今になってそのよくない繋がりというのが秦一族であったのではないかと思える。
皇太子を秦一族の子、黎基の異父弟に挿げ替えるため、秦一族が何かを仕掛けようとしていたのなら――。
あの事件もまた、裏で糸を引いていた人物がいたのではないのか。
ふと、そこに思い至った時、まさか父は無実であったのではないかという考えが浮かんだ。
――などということは、本当は今までに何度も考えた。けれどそれは、そうあってほしいという願望から来るものでしかない。あまりにも都合がよすぎる考えだ。
父に害意はなかったにしても、過失なのだから。
慎重な父であったけれど、それでも人だ。絶対などということはない。
どんなに悲しくとも。
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