10◇仕掛けるなら
弟山は山頂にのみうっすらと雪を残していたものの、足を取られるほどではなかった。
野生の動物たちは冬眠から覚めているだろうか。人が騒がしく住処を侵す間、息を潜めているのかもしれない。
獣たちに代わって雄弁なのは山野の草花だ。今も軍隊の物々しさとは無縁の、優雅な沈丁花の香りが漂う。草花は目にも楽しく、心を癒してくれる。
行きに事件があった弟山だからこそ、皆が細心の注意を払いながら行くのだが、そんな緊張を草花がほんの少し和らげてくれた。
当の黎基はというと、以前とは違い目が見えるようになっている分、不安が少ないのかもしれないと展可には思えた。もしくは、何かが起こることが前提で腹をくくっただけなのか、堂々としていた。
チラチラと展可が黎基を見遣っていると、黎基はそれに気づいて苦笑した。
「どうした?」
「いえ、このまま何事も起こらず下山できるとよいなと……」
春の弟山はのどかだ。
けれど、気を抜いたその瞬間に何かが起こるとも考えられる。
しかし、黎基には黎基なりの考えがあるようだった。
「もし私が
「え?」
「自分たちの陣営が山の下にあり、敵が高所から下りてくる、そこで仕掛けるのは不利だ。下からと上から矢を射かけるのでは飛距離もまるで違う。ただ石塊を落とされただけで脅威だ。そのような場所で戦いを挑まない。だから山を抜けるまではある意味安全だろう」
理路整然と語られた。言われてみると、そうなのかもしれない。
「で、では、どの辺りが危険だと思われますか?」
それを訊ねてみると、黎基はあっさりと言った。
「そうだな、私なら橋を狙う」
「橋……
国内随一の大河である筝河は幅があり、橋などかけられない。竜のようにくねり、長く伸びた河は、舟で渡るのにも骨が折れるほどなのだ。
しかし、その枝分かれした
「それならば、まだしばらくは本格的な戦にならないということでしょうか」
そうであってくれればいいと展可は願った。
「必ずしもとは言えない。そう考えるというだけの話だ。こちらが南下する時、敵が橋の南側で待ち構えていたら厄介だからな。戦の心得が多少なりともある者ならば、そこで待つだろう。こちらが橋を渡った時に叩くのではないか?」
考えるだけで嫌な状況である。
もし橋を落とされたり、渡った端から兵が倒されてしまってはどうにもならないのだから。
「もし橋のそばに陣が敷かれていた場合、どうしたらよいのでしょう? 迂回すべきなのでしょうか」
「いや、そこを通る。私は誰に遠慮もしないし、行く手を阻むのならば退ける」
驚くほど強固な言葉だった。
覚悟を決めた黎基は誰にも止めることができない。
それが国の未来を照らす結果になるのならいい。国民の誰もが望む暮らしやすい国になるのならば。
少なくとも、黎基は自らのためだけに決断をしたわけではないのだろう。
展可は返す言葉もなく、ただ春の木漏れ日が照らす黎基の整った横顔を見つめた。
馬を気遣いながら山道を行く。
弟山を越えるのは一日がかりだ。日を跨ぐわけには行かないので、日が中天を過ぎると皆の顔つきが真剣になる。
それでも下りの途中、少し休んでいると、歩かされて不満げだった劉補佐がじっと遠くを眺めていた。霞んでいて遠くまでは見渡せなかったが、敵兵の気配はないか確認していたのだろう。
そういえば、展可が書いたあの文は誰に渡したのだろうか。
弟山を越えたらさっそくそれぞれの故郷へ誰かを派遣してくれるのかもしれない。あの文が兄の手に渡り、兄が多少なりとも安堵してくれることを展可は切に祈った。
ただ、黎基とこうも近づいたことは一切記していない。それを知ったら、兄はどう思うだろう。
分不相応だと叱るだろうか。それ以上に、妹を案じてくれるからこそやはり叱るかもしれない。
展可も自分の身を滅ぼすだけならば、最期の日まで黎基のそばにいてもいい。けれど、展可の運命に兄は否応なしに巻き込まれてしまう。それがわかるから、黎基の申し出には従えないのだ。
生き延びて里に帰ったら、また平凡な日常が戻る。それでも、昔以上に黎基との思い出が増えたのだ。それを大事に生きていこう。
兄に嫁が来たら、展可はいよいよ一人で暮らすことになるかもしれない。できれば、あんなに兄を慕ってくれている桃児が来てくれたらいいけれど、家族の赦しをもらうのは難しい。里から出ることもできないから、家族の反対に遭えばまず無理だ。
まずは戦を終え、生き延びることが先決と思いつつも先のことを考えている。
それは、里に近づいてきたから、兄に会いたいという心の表れだった。
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