8・医者の息子

 ――読まないと、そんな言葉をあっさりと信じる方が未熟だ。

 昭甫は展可の文を手に取り、クスリと笑った。


 最初からこの文を里に届けるつもりなどない。『愽展可』を名乗るあの娘について知るために書かせただけである。


 皇帝にならんとする黎基が執着し、そばに置こうとするのだ。まったく調べないというわけにも行かない。どうにもあの娘の態度には何か引っかかりを覚えてしまうのだ。何かがあると、そんな予感がする。

 それを知るための手段である。これは必要なことだ。疚しさなんぞはない。


 『愽桃児』というのは、あの娘自身の名であるはずの宛名だが、家族や近しい者ならば桃児は展可と名を変えて従軍しているのだと知っているはずだ。送り主が展可である以上、家族は文を開くと考えたに違いない。


 本当は、本物の展可――兄に宛てたのだと思われる。

 昭甫は躊躇うことなく文を開いた。そこには整った文字が連なっている。


 無事に国に戻ったが、まだ帰れないという、予想通りの面白みのないことが書かれている。

 たいした情報がないと思いきや、最後の方に気になる箇所があった。



  お医者の先生に伝えてください。

  殿下の御目は光を取り戻されました。

  先生の父上もさぞお喜びのことでしょう。

  時はかかりますが、先生との約束通り必ず戻ります。

  ――愽展可



「医者……」


 策瑛を使って探り出したように、桃児には慕う男がいる。その男は医者であるという。

 この文はそれを裏づけるものではないのか。


 昭甫は今になって見てはならぬものを見てしまったような心境だったが、知らずにいていいことでもないような気がした。


 黎基のあの執着具合からするに、展可の気持ちが自分にないと知れば厄介なことになる。これから迎えるべき局面に集中できるだろうか。

 頭が痛い問題だった。


 しかし、この文から読み取れる情報がもうひとつある。もしかすると、そちらの方がより重要であるのかもしれない。


「医者の父……?」


 きっと、この父親というのも医者であっただろうと推測される。そして、この書き方だとすでに生きてはいない。


 故人であるその医者の父が、黎基の目を案じていた。秦一族の息がかかっているのでなければ、国中の医者がどうにかして治せぬものかと考えていたのはわかる。この医者たちもまた、黎基の目を治したいと考えていたようだ。


 もしそれが叶えば、立身出世が約束されたようなものだからか。

 逆に考えるなら、これ以外の答えがあるはずがない。一介の医者が黎基に関りがあるはずなどないのだから。


 ――しかし、もしも関りがあるのだとしたら。


 関りがある医者は典医ということになる。しかし、皇族を診るような典医の息子が片田舎にいるとは考えられない。

 それならばやはり、黎基のための特効薬を作り出し、名を上げたかったと考えるのが妥当なところだ。


 そう考えて、ふと昭甫は姜の里が国内でも西寄りであることに引っかかった。西の――ゆう群だ。

 游群には黎基が気にしている医者の子たちがいたのではないのか。この十年、常に送金をし、生活を保護してきた。


「また、医者か……」


 この符合は偶然か。何故か気になる。

 昭甫はしばらく考え込むと、展可の文を懐にしまい、その足で策瑛に会いに行った。



「策瑛、来い」


 民兵の鍛錬につき合っていた策瑛を呼ぶと、策瑛は手の甲で汗を拭きながら嬉しそうにやってきた。


 背も追い抜かれ、逞しさでも敵わなくなったのに、策瑛はそれでも仔犬のように澄んだ目をして昭甫を見る。この歪んだ世に生きていて、何故その目が曇らないのかが不思議な男だ。


「昭兄、どうしたんだ?」


 他の者がこんなに濁りのない笑みを向けてきたらまず信用しないが、策瑛だけは裏表がないと知っている。昭甫はコホンとひとつ咳ばらいをしてから切り出した。


「游群のあんむらから従軍している民兵に話を聞きたい。ついてこい」

「うん? 何かの作戦に必要なことなのか?」

「そうだ」


 そうだと言っておけば、策瑛は逆らわない。昭甫一人で行かないのは、昭甫だけでは民兵が委縮して話がまともにできないからだ。策瑛がそれをほどよく緩和してくれるからこそ連れていく。


「どの者があそこから来たのかわかるか?」


 歩きながら訊ねると、策瑛は首を横に振った。しかし、手前を歩いていた一人の中年の男に向け、親しげに話しかける。


小父おじさんって、確か游群の晏のむらから来たんだよな?」


 その民兵はきょとんとしたかと思うと、怪訝な顔つきになる。


「いや、違うけど?」

「あれ? そうだったか。ごめん、間違えた」


 素直に謝る策瑛に、男は向こう側を指さした。


「あっちにいるはんってのが、確かあそこから来たんじゃなかったか?」

「ああ、ありがとう」


 ニコニコと笑顔で礼を言って、策瑛は昭甫のところに戻ってきた。


「聞こえた?」


 昭甫は満足してうなずいてみせた。

 やはり、策瑛は使える男だ。今も、昔も。



 範という男は、三十路に片足を突っ込んだくらいで、気は荒そうだが馬鹿ではないらしく、昭甫を見て畏まった。


「いい、楽にしていろ」

「は、はい」

「お前に訊きたいことがある。お前の故郷だという晏のむらに、十年前、母親と兄妹が引っ越してきたのを知っているか? さいという家族だ」


 それを聞くなり、範は僅かに顔を歪めた。その表情からあまり良い話は聞けないという気がした。


「ええ、知っていますよ。なんとなく訳ありな一家で」

「今もむらにいるのだろうな?」

「いますね。あまり近所づき合いをしたがらないので親しくはありませんが」


 つき合いを避けるのは本人たちのせいではない。むしろ自然なことだろう。世の中にも人にも絶望しているのかもしれない。

 しかし、範は眉間に皺を寄せた。


「父親の遺産があるとかなんとかで、働かなくても生活できるようですが、なんというのか、まあむらでは爪弾きですよ。母親は男と見れば色目を使うし、兄は頭が弱いし、妹は不器量で底意地が悪いし……」


 散々な評価である。

 これは黎基から聞いていた兄弟の印象とは真逆と言っていい。そんなにも様変わりしてしまったのかと驚くほどだ。

 黎基が会いに行ったらどれだけ落胆することだろうか。


「そうか、おかしなことを訊いてすまないな」


 昭甫がそれだけ言うと、範は軽く頭を下げた。


「あいつら、何かやらかしたんですか?」

「いや、そうではないが」


 しかし、その答えに藩は軽い失望でも覚えたように見えた。悪事に手を染めていると言われた方が納得できるとでも言いたげだ。


「今回の従軍にしても、蔡家の長男にも話が行ったんですよ。でも、自分はむらから出てはいけないの一点張りで。なんだって言うんでしょうね」

「ああ……」


 この男との話は、昭甫にとってうなずけるところと、うなずけないところとがあったのだ。


 黎基は、当時の蔡晟伯のことを、聡い落ち着いた少年だったと言っていた。それが、年を取って凡才に成り下がったというのか。頭が弱いとは――。



 策瑛を連れ、範と別れてから昭甫はひとつの可能性を考える。

 晏のむらにいる『蔡晟伯』は本物なのか、と。


 そこから出るなと命じられた蔡晟伯が晏のむらに替え玉を置き、他所へ流れ出たとしたら。

 展可の故郷、姜の里にいるということもあり得るのか。


 ――わからないことが多い。

 蔡晟伯が姜の里にいるとして、本来であればその程度のことに害はない。より人目につかないところを選んで住んでいるだけの話なのだから。そこに展可が絡むからややこしくなる。


 もし、展可の想い人がこの晟伯だとしたら、黎基はどうするのだろう。

 昭甫はそっと、手を触れずにおきたい気分になる。


 けれど、もし晏のむらの晟伯が当人でないのなら、黎基があの家に施し続ける意味がない。別の者が銀子を受け取っているということになる。

 黎基には一度、晏のむらを訪ねてもらわねばならないのかもしれない。


 できることならば、蔡家の兄妹が愚かに育ったという結末がただただ望ましかった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る