7◇文

 奏琶国に戻ってからすぐ、遥群の彗のむらに滞在している。

 太守に手配してもらった屋敷で黎基は、瞑想のように目を閉じて座り込んでいることが多かった。


 大事を為す前だからこそ、こうして気を高めているのだろうか。

 展可もそんな黎基の邪魔にならぬように声をかけることはせず、日中はなるべくむらの外で民兵たちと鍛錬していた。


 郭将軍が民兵たちのことも指導してくれたのだ。そこに展可も混ざった。

 ここでの滞在は短期だという。すぐに出立することになるのだろう。


 それにしても、武真国へ行って帰ってきたというのに、あの砂袋を積んだ糧車をまだ引いていることには驚く。兵たちには兵糧がまだ十分にあると思わせたいのだろうか。処分する隙がなかっただけかもしれないが。


 劉補佐は、ここへ来てから部屋に閉じ籠ったまま出てこない。黎基がそっとしておいてほしいというので、展可は食事を運ぶことすらしなかった。勝手に出てきて食べるとのことだ。


 いつ食べているのかはよく知らない。けれど、食事はなくなっているので、食べているには違いないが。



 二日ほどそんなことをしていると、三日目の夕刻、劉補佐が部屋の外に出てきてにこやかに言った。


「お前は、殿下の身辺が落ち着かれるまでは里に帰らぬつもりだと聞いたが、本当か?」


 どうしてにこやかなのかが解せない。劉補佐は、この話題でにこやかになるような人物ではないからだ。


「ええ、まあ……」


 曖昧に答えた。劉補佐の腹のうちが読めないので、警戒するに越したことはない。下手なことを口走ってはいけない。

 劉補佐は静かにうなずいた。


「里の家族にその旨を伝えた方がいいだろう。でないと、殿下が帰還したのにお前が戻らなければ戦死したと思うだろうから」


 ――そうかもしれない。

 兄は、帰ると約束した妹が戻らなければ死んだものと思うだろう。


 できることならば伝えたいけれど、自分たちの事情は込み入っている。そう簡単なことではない。

 この時、劉補佐は展可のことをじっと見て手招きした。


「お前に限らず、民兵たちにはそれぞれの郷里に文を届けてやると言ってある。それこそ、大半の者はまだ帰れないのだからな」


 少々はここで離脱するかもしれないが、黎基について最後まで見届ける者が多いという。家族には詳しいことがわからず、不安だけが募る。それを気にせずに従軍できるようにという配慮だろうか。

 展可も生存報告くらいはしても問題ないかもしれない。


 劉補佐はにやりと笑う。爽やかさの欠片もない。


「お前は役に立った。それから、殿下の御身を案じて帰郷のを引き延ばすという選択をした。だから、そのことを俺も評価している。よい紙とすずりを使わせてやるから、来い」


 この男が黎基のことをそこまで重んじているとは感じていなかったけれど、やはりそれでも側近だ。思うことは多いのかもしれない。


 文を届けられるのなら、何よりも兄に黎基の目が見えるようになったことも知らせたい。

 展可は劉補佐の申し出をありがたく思った。


 劉補佐の籠っていた部屋は、意外なことに香が焚かれていた。この男とそうした雅な代物とが結びつかず、ほんの少し妙な気もしたが、展可は差し出された筆を手に取る。


「書けたら他の者の文とまとめる」

「はい。ありがとうございます」


 展可は劉補佐が窓辺に立ち、展可に背を向けたのを確かめてから書き始める。

 まず、誰に宛てればいいのか、そこに少し悩んだ。


 姜の里に蔡家の兄妹がいることを劉補佐は知っているのだろうか。そもそもが、その兄妹がなんなのかを知らされてはいないかもしれない。

 それなら、『蔡晟伯』の名を出しても構わないだろうか。


 しかし、万が一知っているとしたら、やはり危険だ。

 ここは『展可』らしく妹の桃児とうじに宛てるのがいいと思えた。桃児は賢い娘だから、『展可』から自分宛てに文が届いたとしたら、それを間違いなく兄に見せてくれるだろう。


 展可はよく考えてから筆を滑らせる。


 まず、無事に奏琶国へ戻ってきていること。霊薬の効力で黎基の目が見えるようになったこと。これからもうしばらくだけ従軍を続けることを書いた。


 こうして書いていると、どうしようもなく兄に会いたくなった。会って話したい。話を聞いてほしい。父の罪はこれでゆるされただろうかと。


 余計なことは書くべきではないと思うのに、ほんの少しならばとつけ足してしまう。

 文字を塗り潰してしまおうかと考えてやめた。よい紙と墨なのだ。そんなことをしたら劉補佐にも悪い。


 乾いてから丁寧に文を畳み、包みの表書きに『愽桃児』、裏に『愽展可』と書いた。


「できました」


 その文を劉補佐に差し出す。劉補佐は意外そうな顔をした。


「桃児?」

「はい、妹です」

「そうか」


 あっさりと納得した。事実、桃児は展可の妹である。

 ただ、以前黎基に兄がいることを漏らしてしまった。あれをどう思っただろうか。話がややこしくなるので、覚えていないといいのだが。


 劉補佐はその文を受け取ると、深くうなずいた。


「読まないから安心しろ」

「お気遣い頂き、ありがとうございます」


 思わず苦笑した。いくら劉補佐でも他人の文を盗み見るなどとは思っていない。そんな念を押さなくてもいいのだが。


「これから何かと慌ただしくなるが、気を確かに持て。それから、殿下のことだけは裏切るな」


 改めてそんなことを言われた。

 黎基を裏切るなど、考えたこともない。求愛を受け入れられないのは仕方のないことだけれど、気持ちだけは捧げたつもりなのだ。


「もちろんです」


 そう答えた展可の表情が僅かに乱れたのを、劉補佐はどう思っただろう。それを聞きたくなくて、展可はさっさと部屋を出た。

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