32◇返事は

「ご、ご冗談を……」


 さすがにこれは夢だろうか。

 展可は自分が起きているのか眠っているのか、自信がなくなってきた。


 けれど、黎基の腕は体に巻きついたままで、熱も感じている。

 幼かったあの日、嫁にもらってくれるとは言ったが、十年経ってまたこれを言われるとは思わなかった。

 それも、黎基は展可があの時の子だとは知らないのだ。


 黎基はようやく腕の力をゆるめると、展可の顔に自分の顔を近づけた。


「どうして冗談だと? 私は本気で言っているが」


 微笑むでもなく、真顔でいるからこそ際立って美しい。

 その顔が近くにあるだけで、展可は慌ててしまうのだった。


「たっ、ただの庶民を妃になんて……」

「そこは問題ではない。展可は優れた能力を発揮している。身分があろうとも何もできぬ娘より余程――いや、そういうことではないな。私が欲し、求める、それだけが理由でいい」


 カッと顔がほてるのを感じた。

 好きだと、愛していると言ってもらえたら。そんな妄想はたくさんしていた。

 けれどそれは、叶わない夢だからだ。決して起こり得ないことだからこそ、思い描いて楽しかった。


 展可は、黎基を害した医者の娘なのだ。その事実をなかったことにはできない。

 黎基の目が見えるようになったからといって、罪もまたなかったことにしてほしいと言えたものではない。


 この事実を黎基が知った時、どのような顔をするだろうか。

 蛇蝎を見るような目を向けられたら、とても耐えられない。

 本当の名前すら教えられない展可には、黎基のそばに居続けることなど不可能なのだ。


 赤くなった展可の顔が、みるみるうちに萎んでいくのを、黎基はどのように受け取ったのだろうか。目が悲しげに揺れた。


「こうして私に触れられるのは嫌か?」


 それは違う。そんなふうにだけは思ってほしくない。

 展可は目に涙を浮かべながらかぶりを振った。


「そんなことは……」

「それなら、受けてくれるか?」


 はい、とは答えられない。

 黙ってしまう展可に、黎基は無理強いをしなかった。


「急なことだから、気持ちの整理もつかぬままだろう。返事は待とう」


 黎基は、展可が恐れ多いことだと委縮してしまったのだと受け取ったようだ。だから、時間をかけて決心がつけば展可が受け入れると考えたのかもしれない。


 そういうことではないのだ。

 気持ちだけなら、展可はいつでも黎基を想っている。兄を別にして考えるのなら、唯一の、大事な男性だ。腕の中が心地よく感じるのも、黎基が特別だからだ。


「ところで、その袖はどうして破れている?」


 ふと、黎基がそんなことを訊ねてきた。

 これに、話が逸れたと喜んで飛びついた展可がいけなかった。


「え? ああ、これはダムディン陛下が襲われて逃げてきたというふうに装えと仰って――」


 正直に答えてから、しまったと思った。黎基の顔が曇ったからである。

 戦闘の際に敗れたとでも言っておけばよかった。


「ほぅ。その恰好で外をうろつくのはよくない。ここで待て」


 そう言って黎基は一度出ていったが、展可が部屋から出るのは赦さなかった。

 少し破れているくらいで大げさだ。もう散々、この格好でうろついた後なのだが。


 いつも穏やかだった黎基だが、中には激しい面も持ち合わせている。

 展可が控えている時に、黎基の心が乱されるような局面が少なかっただけで、いざとなればダムディン王にさえ意見するところもあった。


 気が弱く、何も言えないというわけではない。むしろはっきりとした性質なのだ。

 里の中で思い描いてた成長後の黎基と本物はどこか違う。それは当然のことだが、だから嫌だということはない。そうした強さにもまた惹かれる。


 そんなことを考えてから、展可はかぶりを振った。

 流されてはいけない。心惹かれても、自分は里に帰って密やかに暮らすしかないのだ。


 本物の展可に名を返し、細々と人生を閉じていく。その中で、この戦に従軍したことを、それこそ武功にようにして胸の奥に輝かしくしまっておくのだ。


 その後、黎基が相応しい妃を持ったとしても。

 それを考えると、胸が苦しいけれど。


 展可は窓辺で夜空を見上げ、星の河にこの迷いを受け取ってほしいと願った――。



 そうして、戻ってきた黎基は、窓際の展可を見て微笑んだ。ここで微笑むのは、展可が大人しく待っていたからだろうか。


「今晩はここで休めとのことだ。あちらの砦に戻るのは翌朝になってからだな」


 こう暗くなっては危ないので、朝まで動かないつもりだろうとは思っていた。


「左様ですか」


 展可がつぶやくと、黎基は肩当てなどの防具を留めてある紐をほどき始めた。手伝うべきかと思ったけれど、軽装備のために手伝う暇もなく外された。身軽になった黎基はしんだいの上に座った。


「今日はもうこのまま休む」


 食事をしていないが、あんなことがあった後だからか空腹も感じない。むしろ、疲れているからもう休んだ方がいいという意見には賛成だ。


「おやすみなさいませ」


 展可が窓を閉めて言うと、黎基は展可を呼ぶ。


「展可、こちらへ」


 呼ばれてすぐ、ギクリとした。

 黎基と同じ部屋にいるのに慣れ過ぎていて、昨日までとは状況が違うのだということに思い至らなかった。

 しかし、黎基は落ち着いていた。展可だけがギクシャクしている。


「は、はい。何か……」


 黎基は軽くうなずく。その様子は穏やかに見えた。


「展可が女だということを知りながら私の部屋に置いていたのは、その方が安全だと思っていたからだ。女だということを隠しているせいで、もし他の男に知られて脅されでもしたら危ないと、そんなふうに思っていた」


 そんな気遣いをさせていたとは知らなかった。護っているつもりが護られていたとは。

 胸の奥がじんわりと喜びをたたえている。

 けれど、黎基はにこりと綺麗に笑って言った。


「――まあ、途中までは」

「途中まで?」


 展可が首を傾げると、黎基は展可の手を引き、しんだいの上に乗せた。倒れ込んでしまってから、いけない、と身の危険を感じて起き上がろうとした展可を、黎基はクスクスと笑い声を立てて眺めていた。


「返事をもらうまでは何もしない。嫌われたくないのでな」

「嫌うなんて……」


 そんなことはない。

 けれど、深い繋がりを持ってしまえば、より別れがつらくなる。

 だから、何もないままがいい。

 黎基にはほんの少しの未練を抱いて、覚えていてほしい。


「展可がそこにいてくれるだけで、私も安心して眠れる。今日は疲れただろう? おやすみ、展可」


 何もしないと言った以上、黎基はその約束を守ってくれる。それを疑うつもりはなかった。

 今まで何度も横に寝ていたけれど、今も心臓が張り裂けそうになる。

 眠れないけれど、なんと答えていいのかもわからなくて、展可は寝れないながらにまぶたを閉じた。


 黎基の手が、展可の髪をサラサラと撫でていたのを知っているつもりが、やはり疲れていたのか、気づけば寝ていた。

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