33◇根くらべ

 目が覚めても、夢は終わらなかった。

 朝陽が差し込む部屋の中で展可は目を擦ろうとして、腕が上がらないことに気づいた。なんだろうと思ったら、黎基が展可の袖を踏んでいる。


「…………」


 こんなことは今までに何度かあった。今さら慌てることはない。落ち着け。

 そうっと、眠っている黎基を起こさないように袖を引き抜く。なんとか抜けて、展可はほっと胸を撫で下ろした。

 音を立てないよう床に爪先をついて立ち上がろうとした時、後ろから腕が伸びた。


「おはよう、展可」


 先ほどまでの平常心はどこへやら。背中からギュッと抱きすくめられ、展可は危うく悲鳴を上げそうだった。

 黎基は楽しげに、声を立てて笑っている。展可の赤い耳を見て可笑しくなったのだろうか。


「あ、あのっ」


 心臓に悪い挨拶だ。

 それでも黎基は耳元でささやく。


「色よい返事をもらいたいので、これからは攻めの姿勢で行こうかと」


 ――どこまで本気なのだろうか。

 黎基は目が見えるようになって、手近にいた展可で遊ぶつもりなのではないかと、少し思ってしまった。


 しかし、展可が返事をするまで手は出さないとも言ってくれた。

 遊ばれているわけではないのだとして、本気でも展可が受け入れられないのは同じなのだが。


「……殿下、私は妃になどなれません」


 展可が言えるのはそれだけだ。

 幼い頃にはなりたいと夢見たこともあるけれど、成長して現実の只中に身を置くと、あの頃のようにまっすぐ、何も考えずには願えない。


 はっきりと断っても、黎基は腕の力を強めるだけだった。


「まだ始まったばかりだから、結論は急がない」


 展可がうんと言うまで粘るというのなら、根負けするのは黎基の方だ。

 世の中には叶わない願いがいくつもあるのだから。

 それを展可は黎基よりも知っているつもりだった。



 黎基はその後も、展可に外へ出ていいとは言わなかった。自分だけが出ていき、半時ほどして戻ってきた。手には笹の葉に包んだ蒸し米とあつものを持っている。甘い匂いがして、展可は空腹を思い出した。


「ダムディン陛下はこちらにある程度の兵を残し、ヤバル砦へ我々と共に戻るとのことだ。食べ終えたら行こう」

「はい、ありがとうございます」


 どうやら黎基はダムディン王たちと食事を済ませてきたらしく、展可の分だけわざわざ持ってきてくれたらしい。

 あまり時間を取れないとわかっているので、展可は急いで食べていたのだが、黎基があまりにもじっと見つめてくるので喉が詰まりそうだった。ろくに味がしない。


 食べ終えてやっと部屋を出る時も、黎基は展可の様子を気にしていた。展可のというよりも、他の兵が展可に視線を向けるのを嫌がっているような――。


 外は騒がしかったけれど、ダムディン王や郭将軍は目立つのですぐにわかった。馬を従え、出立の準備をしている。

 郭将軍は黎基に気づくと、部下に命じて黎基の馬を連れてこさせた。

 黎基は振り返って展可に微笑む。


「展可は私が乗せていこう」


 ――他の兵の目がある。

 今の展可は女装しているのだから、それは絶対に駄目だ。


「そんな、恐れ多い……。空きの馬の一頭くらいいるはずです。私は余程の悍馬でなければ乗りこなせますから」


 展可が力強く答えると、ダムディン王が声を殺して笑っていた。郭将軍はなんとも複雑そうである。


 黎基は、とても残念そうに見えた。目に見えてがっかりされると、展可の方が困る。黎基の変化が急に思えるのは、隠さなくなっただけのことなのだろうか。


「空きの馬ならいるぞ。貸してやろう。ただし、その恰好では乗れないからな。着替えも借りるといい」


 ダムディン王が笑いながら言った。


「あ、ありがとうございます」


 ここで黎基は駄目だと言わなかった。展可のこの格好が気に入らないからだろう。

 そこでふと、ダムディン王は真剣な面持ちになる。


「戻ったら、牢に入っているあの男に会うか? 一応、約束ではあるからな」


 あの男――羅瓶董。

 会っても心を乱すだけだとわかっている。会わない方がいいはずだ。


 しかし、気持ちを落ち着けて考え、それでも会おうと思う。それは、憎しみに囚われてのことではない。

 師である全と、犠牲になった者たちへの謝罪を引き出したい。それだけのために会うのだ。


「そうさせて頂きます」


 展可が答えると、黎基と郭将軍が緊張したのがわかった。ダムディン王は静かに、そうか、とだけ答えた。

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