31◇戦が終わっても
砦の門が開く前――。
展可はバトゥを相手に奮闘した。少なくとも開門まで耐えなくてはならない。
しかし、バトゥの大刀は重く、まともに打ち合ったのでは一合と持たないのがわかる。それに、敵はバトゥだけでもないのだから、周囲にも気を配らねばならなかった。
槍を構えて睨み合う。そんなものは時間稼ぎにもならない。
バトゥが獣のような咆哮を上げ、踏み込んだ。その声だけで兵たちが竦む。
配下に任せず、自らが動くのは、やはりバトゥが誰よりも強靭であるからだろう。
状況のせいもあり、展可もいつもほど機敏には動けていなかったかもしれない。身体中の筋肉が硬く強張っている。
大柄なのに素早いバトゥの大刀を躱すのがやっとで、どんどん押されていた。焦った展可がとっさに繰り出した、足元を狙った一撃は、バトゥの足に踏みつけられた。
「っ……!」
槍の上に大きな足が乗り、展可の力では支えきれずに槍を手放してしまう。カラン、と音を立てて槍が落ち、次の瞬間には首をつかまれて吊り上げられた。片手なのに、展可の足が地面から浮くほどの力だった。
このままでは首が締まる。展可は必死でバトゥの手に力を込めて体を支え、首を庇った。こんな男にあのちっぽけな短剣で立ち向かえとは、ダムディン王も随分な無茶を言ってくれたものだ。
早く。早く、誰か。
恐ろしさはもちろんあったけれど、この時の展可は死ぬつもりなどまるでなかった。門が開きさえすればまだ助かると、この時点ですら思っていた。
それは戦いのために気が昂っていたせいでもあるかもしれない。
まだ死なない。死ねないと思った。
諦めとは無縁に、展可はバトゥの指を握り締める。
周りは騒がしかった。ようやく門が開かれ、ダムディン王の兵が雪崩れ込んできたのだ。ダムディン王はこの状況に呆れるかもしれないが、少々の功績は認めてほしい。
「うぅ……」
喉の奥から呻きが漏れる。
バトゥとダムディン王が何か威嚇し合っていたが、意識が飛びそうで話の内容までは頭に入ってこない。
その時、何かが倒された激しい音がして、フッと辺りが暗くなった。篝火が倒れたのだ。戦闘のごたごたで兵がぶつかったのかもしれない。展可をつかんでいるバトゥの指が僅かな動揺を見せた。
それからすぐ後、軽やかな靴音がした。闇の中、一人だけが躊躇うことなく動いている。そう感じた瞬間、バトゥの指が痙攣した。
ゴブ、と鈍い音がして、血を吐いたように感じられた。生臭い血の臭いが漂う。
そのまま、バトゥは倒れた。
展可は放り出されたが、苦痛から解放されたのだ。体を打ちつけたくらい、なんでもない。涙が出るのは、呼吸が苦しかったせいだ。ゴホゴホとむせ返ってしまう。
呼吸を整え、暗がりの中で武器になりそうなものを手探りで探すが、上手くいかない。そんなことをしているうちに松明を持った兵が来て、展可の視界も明るくなった。
やはり、倒れているのはバトゥだ。そして、血刀を手にバトゥを足蹴にしている人物は、ダムディン王でも郭将軍でも、ましてや平兵士でもなく、黎基だった。
いつも展可に向けるような優しい目ではなく、冷たい、底冷えのするような目でバトゥを見下ろしている。
「逆賊バトゥを討ち取った! それでもまだ戦意のある者は敵と見なし斬り捨てる! 命が惜しくば投降せよ!」
わぁあああ、と
この格好でも、展可だと気づいただろうか。
心音が狂ったように鳴り響き、焦りが体を駆け巡る。
駆け寄ってきたダムディン王の声で、展可は我に返った。
「よくやった!」
「殿下!」
郭将軍もその後ろにいた。
ダムディン王はバトゥの討伐が叶い、珍しく昂った様子だった。そんなダムディン王に向け、黎基は冷え冷えと言った。
「これであなたに受けた恩は返せましたか?」
「うん、まあ、な。助かった」
「今からヤバル砦まで引き返されますか? それとも、今日はこの砦に滞在されますか?」
「今日はここに留まる。お前たちもそうするといい」
「そうさせて頂きます」
黎基は血刀を兵に預け、へたり込んでいる展可のもとに来ると、肩をつかんで立たせた。逃げるわけにはいかないが、展可は今、自分がどうすべきなのかがまるでわからなかった。黎基はどこか怒っているように感じられる。
展可は黎基から、目を逸らしてダムディン王に告げる。
「あちらの家屋の二階に青巒国王弟、フォン・イーハン様がおいでです。その……拘束してきましたので、誰にも助けられていなければそのままかと」
「そうか。無傷で捕らえたか。いい取引材料になる」
ダムディン王は、明らかに黎基の怒りを気にしていた。だからか、展可にまで言葉をくれた。
「よい働きだった。お前のおかげで被害は少ない。礼を言おう」
「いえ……」
当初の予定とは違うとか、しくじったとか、そんなことは言われなかった。展可としては、こんな屈強な男だとは聞いていなかったと文句を言いたいが、黎基の手前、そんなことも言えない。
黎基はやはり少し苛立ったように言う。
「では、その王弟を捕えて参りましょう。――雷絃、供をしろ」
「はっ」
黎基が言うと、郭将軍は畏まって答える。そして、黎基は展可の手を取り、引いた。
「案内してもらおう」
「は、はいっ」
黎基は展可の名を呼ばない。
もしかして、まだ展可だと気づいていないという可能性はあるだろうか。そうであってほしいと願いつつ、イーハンを捕えてある部屋へ案内した。
イーハンはあのまま転がっていた。
誰も助けてくれなかったらしい。まだ泣いている。
「んーっ、んんーっ」
と、言葉にならない何かを呻き、偉丈夫の郭将軍を前に青ざめて唸っている。黎基は嘆息し、短く命じた。
「ダムディン陛下のところへ連れていけ」
「はっ」
細身のイーハンなど、郭将軍にかかれば担ぎ上げるのも難しくはない。拘束を解かれないまま肩に担がれてしまった。暴れてもたいしたことはない。
郭将軍はイーハンを担ぎつつ、黎基を心配している様子だった。護衛もなく置いていってもいいか迷っているように見えたが、黎基はピシャリと言い放つ。
「私のことならいい。早く行け」
「はっ……」
郭将軍が部屋から出ると、黎基は戸を閉めた。その行為に展可はギクリとする。
黎基は戸口で深々と嘆息したかと思うと、いつもよりもきつい目をして展可を見た。
「展可」
甘さのない声で名を呼ぶ。
展可はとっさに返事をしてしまった。
「は、はいっ」
いけない、と口を押えても、一度飛び出した言葉は戻らないのだ。展可はその場に突っ伏し、手を床について額を擦りつけた。
「も、申し訳、ございませんでした……」
そう言って謝ると、黎基の靴がすぐそばまで迫っていた。片膝を突いた黎基は、展可の後頭部に向けて問う。
「その謝罪は何に対してのものだ?」
すぐには答えられない。
展可は先ほどの戦闘よりもずっと、自分が震えていることを自覚した。答えられずにいると、黎基がゆっくりと続ける。
「私に無断で勝手な行いをしたことか?」
そうです、とここですかさず言うべきだったのかもしれない。しかし、黎基は展可の言葉を待たずに言ったのだ。
「それとも、女なのに男のふりをしていたことか?」
――もう駄目だ。
嘘が明るみに出てしまった。黎基を騙していたことは事実だ。怒るのも仕方がない。
「どのようにお詫びしてよいか……」
声が震える。
こんなことになるのなら、ダムディン王からの申し出を断るべきだったのだ。自分を過信し過ぎた結果がこの始末だ。
しかし、黎基の手が展可の手に被さった。その上に、展可の涙がぽたりと落ちる。
そのせいで絆されたのではないとしても、黎基の声に柔らかさが戻る。
「展可が女であることは知っていた。しかし、隠していたいようだから言わなかったのだ」
ハッとして、思わず顔を上げてしまった。近くにあった黎基の顔からはすでに怒りも通り過ぎている。
「そのことなら詫びずともよい。むしろ、女の身に従軍などさせたのはこちらの方だ。家族に代わり従軍するよりなかったのだろう?」
それは少し違う。
けれど、本当のことなど言えない。また嘘を重ねてしまうとしても、展可はうなずくしかなかった。騙してばかりで胸が痛む。
極度の緊張から手が氷のように冷たくなっていた。黎基の手があたたかく感じられる。
先ほど、黎基も人を刺した。人を殺すのは初めてだろうに、黎基は落ち着いている。立場が一兵士とは違うのだ。覚悟も違うのだろうか。
ただ――と、黎基は柔らかさの中に厳しさを滲ませた声を出した。
「展可に斥候の真似事をさせたのはダムディン陛下だろう? 餌は羅瓶董か?」
黎基はどこまでもお見通しのようだった。気まずさのあまり展可が顔を背けると、黎基の手が展可の頬をすくい上げ、背けられないように固定した。
正面に黎基の端整な顔がある。
「そ、それと……私が首尾よく門を開けられれば、戦で死ぬ兵が減ると……」
「そうかもしれないが、下手をしたら展可が死ぬところだったとは思わないか?」
声が厳しくなる。黎基が怒っているのはこのことだと言いたげだった。
しかし、展可は一兵士だ。展可の身を案じたからこそ黎基が憤るのだという考えは、ひどい自惚れでしかない。馬鹿だ、と自嘲した。
そうだったらいいのに、という願望が勝手に、都合のいいように受け取らせただけなのだ。
展可が内心でそれを恥じたことなど、黎基が知るわけもない。それなのに、黎基は展可の頬から手を下に滑らせ、苦しいほど強く抱き締めた。
これにはどんな意味があるのだろう。
痛いと思う反面、その痛みすら幸福な心地だった。
こんな、まるで愛しい娘にするようにして抱擁されるのは何故か。今日という日があまりに目まぐるしくて、展可の心は疲れた。上手く答えに行きつけない。
――行きつきたくないだけかもしれない。
そうしたら、すぐに現実に引き戻されてしまうから。
展可を抱き締めた黎基は、哀切な声でささやく。
「この戦が終わっても、私のそばにいてくれ」
「えっ……」
「私の妃になってほしい」
事態は、展可の想像を超えて、手に負えない方へと転がっていく。
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