30◆斥候

 アマリ砦の大門の正面にダムディンは陣取る。無言のまま、いつでも攻め入ることができるという圧力をかけていた。


 外郭の上から屈強な男が顔を見せる。

 篝火の灯りを背に受けて見えにくくはあるが、夜目が利く黎基にはしっかりと姿を捉えることができた。あれがバトゥか。


 三十代半ばの、厳しさを強く感じさせる風貌をしていた。ダムディンが兄たちの中で一番厄介だと言うだけのことはある。

 バトゥの表情からは、弟への憎しみしか感じ取れなかった。


「ダムディン! この偽王めがっ!!」


 ダムディンは、バトゥが顔を出した際にふと一度黎基の顔を見遣った。黎基が竦んでいないか気にしたのだとするなら、そこまで臆病なつもりはない。


「正当な王を偽者呼ばわりするお前はなんだ? 国賊ではないのか」


 億劫そうにそんなことを言う。二人は炎と氷のようであった。

 バトゥは外郭の上から引いた。矢面に立って射られたくはないはずだ。大門が破られない限り、奥にいればいいと思っているのだろう。


 しばらくして、ダムディンは戦鼓を二度打たせた。

 ダン、ダンッ、と音が鳴り響く。


 この合図が攻撃開始だと受け取ったのか、敵兵がざわつく。

 しかし、そのすぐ後のこと。外郭の上の様子がおかしかった。バトゥが戻ってきたのではない。


「何か騒いでいるような……」


 黎基が気にしてつぶやくと、ダムディンはニヤリと不敵に笑った。

 それからすぐ、外郭の上から縄梯子が降りてきた。登ってこいと言わんばかりに。

 なんの罠かと思えば、そうではない。忍ばせているという例の斥候が下ろしたと考えられる。


「よし、急げ」

「はっ」


 縄を体に巻いた小柄な兵が、降った矢の隙間を縫うようにして縄梯子に近づいた。その間に敵の弓兵が矢を射かけようとするが、それをこちらの兵たちが応戦して庇う。


「俺たちは門が開くのを待って突入する」

「……畏まりました」


 ダムディンにそう答え、黎基は上を見上げる。この時、明らかに兵士ではない白い影が見えた。甲冑も着ていない細身の姿だった。あれがダムディンの斥候か。

 一体、どんな人物なのだろう。


 縄梯子を下ろすことができた時点で、その斥候は優秀だと言えるだろう。できることなら助けてやってほしい。ダムディンも使える人間を失いたくはないだろうが。

 縄梯子が二か所に増え、兵は次々に外郭を登る。


 しかしこの時、ダムディンはどことなく苛立って見えた。時をかけ過ぎだと思うのだろうか。


 突入した兵が無事に門を開くまで、四半時ほど要した。ギギギ、と重たい音を立てて少しずつ門が開くのを兵たちは待てず、その隙間に吸い込まれるようにして雪崩れ込む。


 ダムディンは黎基に目配せした。

 黎基は雷絃に向かってうなずき、馬を走らせる。


 アマリ砦の中では兵たちの乱闘が行われていた。草原ほどの広さはないので、入り乱れての戦闘である。焚かれた篝火に兵がぶつかり、台が倒された。他に燃え移らうよう、ダムディンの兵が躍起になって火を消しにかかっている。


 僅かに暗くなった砦の中、ダムディンの馬が止まった。

 そこに見えたのは、バトゥが他の兵よりも幾分小さな人間を片手で吊るし上げているところだった。


 兵ではない。白い衣を着た髪の長い女だった。片手で首をつかんで吊るされているが、その女は胆力があり、バトゥの手に自分の手をかけ、腕の力で自分の体重を支えて必要以上に首が締まらないように抵抗している。


 この場において、ただの女にバトゥがそんなことをするわけがない。彼女こそがダムディンの差し向けた斥候なのだと気づいた。


 だから、ダムディンは黎基が嫌がると思ったのだ。

 女性にこれほど危険な役割を与えることを、黎基は快諾したりしない。ダムディンは必要とあればそれをするのだから、そんな黎基の意見を聞く気はないのだ。


 黎基はとっさに雷絃にささやく。


「雷絃、篝火を消せ」

「……はっ」


 何故、とは問わない。黎基がそうしろというのだから、それに従ってくれる。

 ダムディンは、バトゥから目を逸らさない。しかし、バトゥはダムディンが動けば彼女をくびり殺すだろう。ダムディンは出方を窺っていた。


「バトゥ、俺と勝負しろ」


 ダムディンがそう告げても、バトゥは失笑するだけだった。


「一騎打ちか? その手には乗らん」

「弟を相手に怖気づいたのか、兄上?」


 バトゥはダムディンの挑発にも乗らない。

 そろそろ、吊るし上げられている女性も限界だろう。抵抗する腕が下がってきている。


 よく見ると、まだ少女なのではないだろうか。すらりと、鹿のようにしなやかな四肢をしているが、顔立ちはどこか幼く――。


 そこで、一番近くにある篝火が倒された。それを兵たちが足で揉み消す。雷絃は黎基のそばから動いていないが、部下に命じて篝火を消させたのだ。黎基がそれを指示しておきながら、視界が暗くなったことに内心で歯噛みした。


 今、見ていた、苦痛に歪んだ彼女の顔は、よく見知った者に似ていたのではないか。

 まさか、とは思う。

 そうして、今、それを考えていてはいけない。


 黎基は灯りが消え、すべてが暗がりに引き戻された中、雷絃に手綱を渡した。そして、馬上から飛び降りる。

 バトゥや敵兵たちの目が闇に慣れてしまう前に、黎基は素早く間合いを詰め、腰に佩いていた剣を引き抜いた。背後からバトゥの甲冑の繋ぎ目から剣を差し込む。


 目だけに頼らない動きができる黎基だからこそ、夜戦には人一倍の動きができる。

 急襲に慌てて着たのか、この斥候と争って乱れたのか、脇腹にずれが生じていた。黎基はそこに剣を突き立てたのだ。


 これで女性を支えていられるはずもなく、彼女は解放されたが、苦しそうな息遣いだけが聞こえた。

 硬い肉の感覚が黎基の手に残る。その剣を、バトゥの体を足で押えながら引き抜いた。まだ、生きている。


 しかし、動ける傷ではない。死は目前である。

 倒れたバトゥの体を前に、黎基は高らかに声を上げた。


「逆賊バトゥを討ち取った! それでもまだ戦意のある者は、敵と見なし斬り捨てる! 命が惜しくば投降せよ!」


 黎基の声が響く中、松明の灯りを持った兵たちが近づき、倒れたバトゥが最早虫の息であることを見て取った。


 混乱と熱狂。

 ときの声が上がる中、その場にへたり込んで喉を押さえていた女性が、咳込んだためか安堵からか、涙を零しながら黎基を見上げた。目尻に引いた朱の化粧が滲んでいる。その顔は、展可だった。


 武真国の女性の装いではあるが、どう見ても展可だ。黎基を見上げ、そしてハッと顔を背けて袖口で隠した。その動きで認めているようなものである。


 身体中が痺れるような感覚が駈け廻る。

 これは怒りだろうか。よく、わからない。


 まるで破壊衝動に近い何かが、黎基の中でせきを切ったように溢れる。

 しかし、ダムディンの声で黎基は我に返った。


「よくやった!」

「殿下!」


 雷絃も黎基の馬を兵に預けて駆け寄ってきた。大将が討たれたとあっては戦にならない。バトゥの兵たちは次々に武器を捨て、投降する。


 ダムディンはバトゥの討伐が叶い、珍しく昂った様子だった。

 しかし、斥候の姿を見るなり気まずそうに頬を掻き、チラリと黎基を見遣る。その顔に向け、黎基は冷え冷えと言った。


「これであなたに受けた恩は返せましたか?」

「うん、まあ、な。助かった」


 黎基が、これ以上恩を着せるなと拒絶しているのをダムディンも感じたのだろう。


「今からヤバル砦まで引き返されますか? それとも、今日はこの砦に滞在されますか?」

「今日はここに留まる。お前たちもそうするといい」

「そうさせて頂きます」


 黎基は血刀を兵に預け、へたり込んでいる斥候の肩をつかんで立たせた。やはり、展可だ。

 展可は黎基の怒りを感じたのか、目を逸らしてダムディンに告げた。


「あちらの家屋の二階に青巒国王弟、フォン・イーハン様がおいでです。その……拘束してきましたので、誰にも助けられていなければそのままかと」

「そうか。無傷で捕らえたか。いい取引材料になる」


 ダムディンは鷹揚に答えていたが、明らかに黎基の怒りを気にしていた。


「よい働きだった。お前のおかげで被害は少ない。礼を言おう」


 この尊大な王が素直な言葉を述べたのは、黎基を逆撫でしないためなのか、本心なのかはわからない。それでも展可は頭を垂れた。


「いえ……」

「では、私がその王弟を捕えて参りましょう。――雷絃、共をしろ」

「はっ」


 黎基が言うと、雷絃は畏まって答える。そして、黎基は展可の手を取り、引いた。


「案内してもらおう」

「は、はいっ」


 展可は、なんの説明もしない。しかし、バトゥに吊るし上げられていた時以上に怯えて見えた。

 後ろに続く雷絃はまだ、この娘が展可であると気づいていないふうだった。

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