29◇孤軍奮闘

 窓は内側から開けられる。

 展可は格子窓を外し、そこからこっそりと外を見た。


 せん(煉瓦)を積み上げた外郭――大門の上部を見遣っても、内側に脅威はないと考えているらしく、見張りは正面の一方しか見ていない。

 なるべく目立たないように移動できるだろうか。ここからだと屋根伝いに行くしかない。


 ダムディンは戦鼓を三度鳴らすと言った。

 その音が合図だと。それなら、戦鼓が鳴り、見張りの兵たちが気を取られた時に動くべきか。


 窓から逃げ出そうとする展可のことを、拘束されたイーハンが誰かに知らせようとするのか、芋虫のように体をくねらせて床に体を打ちつけているが、誰も来ない。

 

 余程のことがない限り、貴人の閨に踏み入る兵などいないだろう。

 まさかこんな状態になっているとは思わないはずだ。


 展可は深呼吸し、覚悟を決めると、窓の外へ出た。


 日が暮れ始め、あちこちに篝火が焚かれる。薪の燃える匂いと音、周囲を照らす明るさが今はかえって不安を煽る。

 展可が屋根瓦の上に下りると、カシャン、と小さな音が鳴る。


 イーハンの部屋は外郭とそれほど変わりない高さだ。ここからなら行ける気がする。屋根の上のなるべく灯りの届かない陰に移動し、身を低くして待つ。


 それにしても寒いし、屋根は冷たかった。

 嫌な任務を与えられたものだと思うけれど、上手くいけば被害が抑えられるのだ。ここまで来て失敗はしたくない。



 ――徐々に砦の中が騒がしくなる。

 きっと、ダムディンの兵が砦に迫っているのを察知したのだ。物々しく兵たちが展可の潜んでいる辺りを行き来するので、生きた心地がしなかった。


「……なあ、あそこ、窓が開いてる」

「本当だ。イーハン様のお部屋じゃないのか?」


 下からそんな声がして、展可はギクリとした。それでも息を殺していると、兵士たちは気にしつつも歩みを止めなかった。


「楽士の娘を連れて部屋に籠ってるんだよな。ああいう時って窓、開けるか?」

「さあ? イーハン様ってちょっと変わってるしな」

「そうだな。変わってるな」


 ハハッ、と笑い飛ばされた。イーハンがまったくもって敬われていなくてよかったと、展可は胸を撫で下ろす。

 しかし、緊張感のない兵だ。それというのも、この籠城が破られないと思っているからだろうか。


 その時、ドンッと戦鼓の音が鳴った。

 砦の兵たちは皆、体を凍りつかせただろうが、展可の心臓も同じほどには跳ね上がった。


 ドキドキと、脈打つ心臓が痛い。どうしよう、どうしたらいいのだろう。

 何も成せていない。このままでは籠城が解けない。

 ダムディンの兵は一度退けばいいかもしれないが、展可は逃げ道を失ってしまうのだ。ダムディン王は下手を打った展可のことなど助けてはくれないだろう。


 ほんの少し冷静な部分で、戦鼓が一度しか鳴らなかったことに気づく。

 ダムディン王は三度鳴らすと言ったはずだ。

 この時、外郭の高みからバトゥの声が轟いた。いつの間にか外郭の上に来ていたのだ。


「ダムディン!! この偽王めがっ!!」


 憎悪が収束した声だった。誰もが身を竦ませる。

 バトゥがあそこにいたのでは、展可も縄梯子を下ろせない。打つ手がなくなってしまったのか。焦りから汗が滲んだ。

 この時、バトゥに返すダムディン王の声には憎しみなど籠っていなかった。


「正当な王を偽者呼ばわりするお前はなんだ? 国賊ではないのか」


 そこには肉親に対する情もない。淡々と返しただけのものだった。

 この兄弟間には最早、会話など成り立たない。どちらかが死ぬまで戦は終わらない。ただそれだけである。


 バトゥが姿を見せたことで、展可がしくじったのだとダムディン王も知っただろう。それでも焦った様子を見せないのは、さすがと言えるかもしれない。


 この時、黎基はどうしているのだろう。ヤバル砦に待機している可能性もある。もしこの作戦が黎基に知られると、勝手に展可を使ったことを弁明しなくてはならないのだ。面倒だと考えるだろう。


 ふと、ここで展可が死んだ場合、ダムディン王は最後までとぼけて展可を逃亡兵に仕立ててしまう気がした。最悪だ。

 やはり、どうあっても死ねない。不名誉よりも黎基の信頼を裏切りたくない。


 ダンッ、ダンッ、と戦鼓の音が鳴る。

 すると、バトゥは矢を受けやすい外郭から下りた。籠城するつもりなら家屋の中に戻ったのだろう。


 展可はこの隙に屋根の上を進んだ。滑りやすい瓦の上、展可は身軽に外郭へと飛び移る。兵士たちはぎょっとしていた。


「お、お前っ!」


 この時はまだ、展可はか弱い楽士の娘である。それをギリギリまで利用することにした。貞操の危機に必死で逃げてきたふうを装い、両肩を抱いて兵士たちの方へ歩み寄る。


「ご、ごめんなさい、その……」


 おろおろと口元を隠しながらつぶやくと、兵士たちはまだ驚いているだけで展可を警戒していなかった。この国の女は淑やかだと、身に染みて知っているのだとして、それでも疑ってかかった方が身のためである。


 展可はうつむき、外郭に設置してある縄梯子を固定している留め金を確認する。撥ね上げれば簡単に外れそうだ。ただし、味方が数人登ってくるまでここを死守しなくてはならないのだが。


 展可は息を止め、敵兵が持つ槍の穂先の下の柄をつかむ。そして、その兵の首を蹴った。甲冑も首までは庇えない。

 ぐうっと唸り声を上げ、兵士は槍を手放す。展可はそれを我がものとすると、自分を迎え打つ兵に向かって振るう。力では勝てない。勝てるのは速さだけだ。


 この時になってようやく、展可に向けて刀剣や槍の切っ先が向けられる。


 展可は正面から打ち合うのではなく、槍を棒のように旋回させ、そばにいた兵士の首の裏を強打した。もう一人は、その反動を利用して穂先の方で脛を切りつける。


 数人を退けると、縄梯子の留め金を槍の柄頭で押し上げて外した。縄梯子を足で蹴飛ばして下ろすと、敵味方問わずざわめきが起こる。


「お、お前、間者か!」


 ――ここからは、展可が一人で戦い抜かなくてはならない。

 歯を食いしばり、槍を構え直す。外郭の上にいる兵は弓矢を持つが、この至近距離で素早く動く展可に狙いを定めるのは無理だ。味方に当ててしまう。


 展可につかみかかろうとするが、ここは細い通路のような広さしかなく、乱戦には向かない。一斉に槍を振るえば、やはり味方に当たるのだ。

 バトゥの兵は下から上がってこようとする敵に対して矢を放とうとするが、ダムディン王の兵もまた矢を射かけてくる。


 そうこうしているうちに、一人の兵が上がってきた。その兵は腕に矢を防ぐ小振りの盾をつけ、体に縄梯子をくくりつけていた。それを見た展可は、ダムディン王の用意のよさに感心してしまった。

 その兵によって縄梯子は二か所に増え、兵が次々と上がってくる。展可はほっとして、身体中の力が抜けそうだった。


 ダムディン王の兵たちが展可のことをどの程度聞いているのかはわからないが、展可が味方であることはわかっているようだった。

 十人を超えるくらいの兵が外郭を上りきると、展可はそろそろ大門を開けられるだろうと考えた。


「開門を急ぎましょう!」


 声をかけると、ダムディンの兵たちはオオッと野太い声を上げた。

 外郭の上から階段を使って下りる。その間も、次々に兵が襲いかかってくるのだが、下から来る兵に上から相手をするのは有利だった。


 展可は槍を兵士に叩きつけ、階段から落とした。穂先ではなく柄頭を使ってしまうところが甘いと言われるかもしれないが。


 段の下に倒れた兵士が積み上がり、展可はそこを避けて階段の途中から地面に着地した。

 しかし、その先には敵兵が束になって待ち受けていた。


「やはり、元気がよすぎる娘だな」


 バトゥが幅広の大刀を手に、兵を引きつれてそこにいる。篝火に照らされたバトゥの姿に、展可はゾッと身を震わせた。

 それでも、ここで抑えなくてはならないのだ。


 見たところ、内側に入り込めた兵の中に、バトゥと打ち合えるような猛者はいないのではないだろうか。

 少し耐えれば、戦況はよくなる。それは間違いない。展可はそう確信し、槍を構えた。


「門の解放をお急ぎください」


 近くにいた味方にそう告げると、展可はバトゥに穂先を向けた。正直に言って敵う相手ではない。何合打ち合えるかもわからない。速さで翻弄し、足止めさせるのが精一杯だ。


 どんなに展可が睨みつけても、バトゥがそれくらいで怯むことはなかった。こめかみに青筋を立てている。


「惨たらしく死にたいとみえる」


 そんなはずがない。それでも、引けない。

 展可は思いきり地面を蹴った。

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