26◇作戦変更
琵琶も弾き続けるには、それなりに体力と気力を使う。
それも、今の展可のように重大な任務を背負っているとなれば尚更だ。段々腕がだるくなってきた。
目の前で薄い衣を纏い、ひらひらと踊る女たちを前に、展可は疲れを感じている。いつまでこの座興を続けるのだろう。
しかし、なんでもないことのようにして弾き続けるしかなかった。
当のバトゥは杯に並々と注いだ酒を飲んでいるが、酔った様子はない。酒と女を前に浮かれているような男ならよかったのだが、楽しみながらも別のことを考えているような冷めた目をしていた。
こんな小細工が通用する相手ではない気がしてきた。
頭が冷めたのがもう少し早いか、もしくは遅い方がよかったなと展可はここへ来たことを後悔している。
けれど、弱気になってしまっては足がすくむだけだ。いいことなどひとつもない。
ここへ来た以上、すべてが終わらなければ黎基のもとへは戻れない。
展可が唇を噛み締めて演奏を続けていると、バトゥの近くにいた男が羽扇を手に嘆息した。その男は、兵士にしては頼りない。バトゥよりも少し年上かというくらいだが、家臣には見えなかった。王侯貴族といった風情だ。
バトゥのそばにいると存在感がなくて、展可は気に留めていなかった。
「バトゥ殿、そろそろよいのではありませんか? 琵琶よりもお楽しみが待っているのですから」
チラリ、と男がバトゥを見遣る。何か、ねっとりとした嫌な目をする男だ。劉補佐をもっともっと陰湿にした感じがする。
すると、バトゥは目を細め、杯を空けた。展可はその嚥下する喉を見つめる。あの太い喉に突きつけるには、ダムディン王から預かった短剣は華奢だった。不安しかない。
「……まずはあなたからでしょう? そうすると、次を待つ身としては、ねぇ」
ゾワッ、と肌が粟立つ。待たないでほしい。そんな順番は来ない。
大体、この男は誰だ。
『バトゥ殿』と呼ぶからにはやはり家臣ではない。それから、兄弟でもない。誰だ。
展可が考えていると、バトゥが口を開いた。
「イーハン殿」
知らない名だ。それでも、敬称をつけるのだから、対等に近い関係ではあるのだろう。
バトゥは一度展可を見遣ると、それからイーハンに向けて言った。
「それなら先を譲りましょう」
思わず、展可の方がえっ、と声を上げてしまいそうだった。それを呑み込んだものの、顔には動揺が表れていたかもしれない。
けれど、イーハンは気づかない。
「よろしいのですか?」
嬉しそうだ。展可はどうしようもなく寒気がした。それから、焦る。この流れは非常にまずい。このままでは役割を果たせないのだ。
しかし、バトゥは失笑しながら言った。
「その娘は元気過ぎるようなので、少し疲れたくらいが丁度よいかと」
まさかとは思うけれど、展可がここへ送り込まれた斥候だと見抜かれているのだろうか。
そうでないのなら、単に好みではないということか。あんなに肉感的な美女に囲まれていたら、田舎の小娘に食指が動かないのは当然かもしれなかった。
ダムディン王が人選を誤ったのだと言ってやりたい。言ったら、お前の魅力が足らん、と鼻で笑われるのだろうか。
――もしくは、そんなやり取りができるほど穏便には終われない。最悪の結末が待っているだけなのか。
「娘、イーハン殿と閨を共にしろ」
展可はその途端、琵琶を床に置き、その場で手を突いて訴えた。
「ど、どうぞそればかりはご容赦ください!」
しかし、兵士たちも妓女たちも声を立てて笑うばかりである。
「何も持たぬ娘が他に何を差し出せるというのだ?」
「それは……」
言い淀んだ展可の肩を、二人の兵士がつかんで立たせる。
「想う男でもいるのかね? その男が助けに来てくれるとでも?」
ハハッ、とイーハンは笑った。その鼻をへし折ってやりたい。
こうなったら、どうにかして隙を突いて逃げるしかない。逃げる際に何か、ダムディン王の兵たちが有利になることをしなくてはならないだろうか。
ただ逃げ帰っただけでは、黎基の顔に泥を塗ってしまうかもしれない。
一体、何をすればいいのか――。
展可はそのままイーハンと同じ部屋に閉じ込められた。ヤバル砦よりも贅沢な調度品のそろった部屋だった。バトゥだけでなく、この男にまで贅沢な生活をさせているらしい。
「……あなたは、どこのどなたなのですか?」
展可は部屋の隅まで退き、距離をいっぱいに取ってから訊ねた。すると、イーハンの口からは意外な言葉が聞けた。
「私は青巒国王弟、フォン・イーハンだ。本来であれば楽士風情が近づくこともできぬ身である。光栄に思うがいい」
思うわけがない。
展可は正直なところ気持ちが悪いとしか思えなかった。顔が嫌いだ。
ここ最近、贅沢なことに、ずっと黎基のあの綺麗な顔ばかりを見て過ごしていたのだ。目が肥えている。
――と、そんなことは置いておくとして、この男が青巒国の王族であるとするのなら、人質として効果的なのではないのか。バトゥも今、青巒国の援助がなくなるのは痛いはずだ。イーハンを失うことは避けたいだろう。
いや、しかし、イーハンを盾に取って籠城を解かせても、バトゥが討たれては意味がない。やはりバトゥ以外は人質にしても門は開けられないだろう。
困った。
思案顔の展可を、イーハンは怯えていると見て取ったらしい。楽しそうだ。
「さあ、こちらにお――」
そう言って手を伸ばしたイーハンの懐へ、展可はイーハンの目には捉えられないような速さで潜り込んだ。そして、掌底を思いきり突き上げ、イーハンの顎に叩きつけた。
「ぐぁっ!」
舌を噛んだらしく、口を押えて転がる。
弱そうだなと思っていたから怖くもなかったのだが、思った以上に弱かった。
展可は容赦なくイーハンの腰の帯を解き、それで両手を縛った。
その間、血泡を吐きながらゴブゴブと何かを喋っていたが、後は
それにしても弱い。これがバトゥだったらどんなによかったか。
展可はひと仕事終えた心境だったが、ここでこのまま待っていては、ダムディン王の兵が入れない。なんとかして突破口を開きたい。
しかし、バトゥを相手にするのは無理かもしれない、と展可は考えた。臆病風に吹かれたというより、これは冷静な判断だ。
勝てない敵に単身で挑んでも功は挙げられない。
バトゥを人質に取らず籠城に綻びを入れるにはどうしたらいいのか。
あの重たい門を開けるには、数人がかりでないと無理だろう。一人ではとても開けられない。
それなら、あの縄梯子を上から下ろしてみたらどうだろうか。上がれる人数は多くなくとも、数人が上がりきるまで展可が上にいる兵を退けられたら、また事情は変わってくる。
それをするためにはまず、この部屋から窓を使って出なくてはならないのだが。それも、見つからずに。
格子窓から外を見遣ると、兵はそれほど多くはなかった。砦の構造上、遠くを見ることはしても、中の様子を見るようにはできていないのだ。
とりあえず、ここを出よう。
展可はそれを決めた。
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