25◆執着心

 ――その日の早朝、黎基は展可が眠っているうちにしんだいを抜けた。


 涙の跡が残る、疲れ果てて眠った展可を見ていると、沸々と怒りが湧く。それと同時に、何にも代えがたいほど、もしかすると自らの命よりも大事に思えた。


 ここしばらく、展可に特別な気持ちを抱く自分をうっすらと自覚はしていた。それが今回のことでより強く、鮮明に浮き上がったと言える。


 今の展可は、世辞にも綺麗な恰好はしていない。戦明けの汚れた姿でさえ愛しさが込み上げるのなら、この気持ちが気のせいであるはずがない。

 こうした感情を他人に抱いたのは初めてのことだ。


 これから黎基は国に帰っても、平穏とは無縁の日常を送ることになるが、その時に展可を元の暮らしに戻してやれる自信がなかった。

 理由をつけて繋ぎ止め、地位が安定した暁には妃にしたい。展可がただの庶民で後ろ盾が何もなくとも、展可自身にそれに見合う才覚があるのだから、誰にも文句は言わせない。


 問題は、いつそれを当人に告げるかということ。

 黎基は眠る展可の頬を撫で、それから部屋を出た。

 隣の部屋の昭甫と雷絃を訊ねる。


「湯を使わせてもらってくる。……展可はまだ眠っているが、そっとしておいてやってくれ」


 昨日、展可が師である尤全を亡くしたことを二人も知っている。甘いことをとは言わなかった。


「砦の中とはいえ、何があるかわかりません。ご一緒致しましょう」


 雷絃が気になるのは、祖国から率いてきた兵の中に黎基を害そうとする刺客がいると疑ってのことだ。ダムディンのそばにいるうちは手を出してこない可能性が高いとはいえ、絶対ではない。

 黎基はうなずいた。


「頼む」

「私はこちらでお待ちしております」


 昭甫は何やら浮かない顔をしていた。戦場にはいなかったが、文官である昭甫も戦は初めてのことだから、思うところもあるのだろうか。



 湯殿に行くと、手慣れた女官が甲斐甲斐しく黎基の背中を流してくれた。男の肌にも恥じらいを見せない。

 戦時において、彼女たちが兵に対しどのような役割を果たすのか、さすがに黎基もわからないわけではない。ただ背中を流すために砦にいるはずがないのだ。


 雷絃は外で待っているが、中にいてもらった方がよかったかもしれない。なんとなく、女官との距離が近いと思えた。


「きゃっ」


 甘えた声を上げて抱きつかれる。


「すみません、足が滑って……」

「ああ、そうか。怪我はないか?」


 淡々と返すが、女官はなかなか離れない。黎基の肩に胸を押しつけ、潤んだ瞳で見つめてきた。


「お優しいのですね。あなた様のようなお方には初めてお会いしましたわ」


 震える声で言われたが、黎基はまた、そうか、とだけ返した。

 素っ気ない対応に、女官がムッとした。

 十分美しい女性だと思う。けれど、それだけだ。


 黎基はサッと立ち上がり、自分で体を拭いて衣を羽織った。この間もひたすらに展可のことが気になっていたのだ。


 女官は顔を赤らめていたが、それは羞恥心からではなく屈辱からだったかもしれない。男からまったく興味を示されなかったことなどないのだろう。恥を掻かせたのなら申し訳ないが、興味本位で線を越えて来られては困る。


 今のところほしいのは一人だけで、それは彼女ではない。

 さっさと湯殿から上がった黎基を、雷絃は意外そうに見た。髪も水気が滴っており、整えられているとは言えなかったからだろうか。


 しかし、雷絃は何かを感じ取ったのか、余計なことは訊ねなかった。

 無言のまま部屋に戻ろうとした黎基を呼び止めたのは、ダムディンだった。


「黎基。……なんだ、彼女では不満だったのか?」


 その笑いを含んだ表情と声音で、先ほどの女官をけしかけたのがダムディンであると知った。


 黎基が怒りを孕んだ目を向けても、ダムディンは平然と黎基を部屋へ誘った。雷絃は戸惑いつつも追い払われてしまう。


 ダムディンの部屋に籠るのは、最初にこの砦に来て以来だったかもしれない。それでも、ここへ呼ばれたのは何か大事な話があるからだと思いたかった。間違っても女性の話だけではないと。


「せっかく異国にまできたのだから、毛色の違う女も試してみればいいものを」

「……お話はそれだけですか?」


 黎基の顔に怒りが浮かんでいたとしても、ダムディンがそれを恐れるわけではない。サラリと躱して話を続ける。


「お前はあの展可という娘に執着しすぎているようだ。それはあまりよい傾向とは言えん。世の中には美しい女がごまんといる。他にも目を向けた方がいい」


 ダムディンは王であるから、後宮の主である。すでに子も何人か生まれていた。

 そうした男からすれば、黎基の想いは愚かに写るのかもしれない。しかし、余計な世話であると言いたい。


「美しいだけの女なら幾らもいることでしょう。私は他の者に用はございません。展可がいればそれでいいのです」


 ピシャリと言うと、それでもダムディンは鼻白んだ様子だった。


「あれだけそばに置いていながら、まだ手をつけていないようだが?」


 大事だからこそだ。そこがダムディンにはわからないらしい。


「今は戦の最中です。落ち着くまでは待つつもりをしております」

「気の長い話だな」


 呆れたような声を上げられたが、ダムディンはそこでやめなかった。何故か執拗なまでに続ける。


「抱かずにいるから執着するのだ。何度か味わって、飽きればそこまでの値打ちを感じなくなる。大体、女は男に偽りの顔で接する。お前が知る展可もまた、お前にだけ見せる顔だろう。すべてを信ずるには足らん」


 お前が展可の何を知っているのだと、黎基は苛立ちしか感じなかった。それをダムディンも察したようだ。頭に血が上っている黎基には何を言っても無駄だと。

 ただ嘆息した。


「その執着で身を滅ぼすなよ」


 それがダムディンの最大の忠告であった。

 ただし、黎基はやはり、そんな助言は要らないと思った。


「――今日の夕刻、バトゥの籠城を解かせる。それに合わせて進軍するが、お前は砦に残っていていいぞ」

「何故ですか? 兵力は多い方がよいはずです」


 先ほどの話だけで判断されたくはない。女性に対する考え方が違うだけで共闘するに足らないと思うのならあまりに狭量だ。

 しかし、ダムディンは頭をガリガリと掻いた。


「俺の策がお前には受け入れがたいものだからな。待っていた方がいいだろう」

「どのような策なのですか?」

「それは言えぬな。しかし、これによって人死にが格段に減るはずだ」

「それなのに私がその策を受け入れぬと申されるのは、どうしたわけでしょうか?」


 ダムディンは、うぅん、と唸った。


「まあ、仕方がない。文句はすべて終わってから聞こう」

「一体、それは……」

「支度があるのでな、話はここまでだ」


 そう言ったかと思うと、ダムディンは黎基を部屋から放り出した。釈然としないまま部屋に戻ると、展可は目覚めたらしく、いなくなっていた。体を洗ったり、着替えたりは黎基がいるとできない。


 そのせいでどこかに隠れているのだと、この時はなんの疑いもなく思った。

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