24◇楽士
展可は何度も振り向き、追われているような仕草をしながら走った。
バトゥの根城になっている砦は、ダムディン王が滞在しているヤバル砦よりも横に長い。青巒国との国境付近であるからだろうか。
ただ、こんなことで本当に中へ入れるのか、展可はまだ疑っていた。もし門前払いだったら走り損である。
砦の外郭の上に番兵が見えた。四人、弓を手に立っている。
「そこの女、止まれ!」
展可は矢尻を向けられ、その場にへたり込んだ。
ただの娘なら展可のように、この距離なら躱せる、などと冷静には考えないはずだ。怯えたふりをしなくては。
はぁ、はぁ、と地面に突っ伏して肩で息をしてみせる。しかし、意識はしっかりと警戒したままでいた。
「ここがどこだか知っているのだろうなっ?」
上から声が降る。
走ってきたのだから、展可の喉はカラカラで、声が上手く出ない。
それで信憑性が増すだろうか。
「助けて、くださいっ」
それだけを絞り出す。
兵士は相手が若い娘なので、矢を向けたのも威嚇でしかない。その弓でどうこうするつもりはないはずだ。それでも、展可は怯えたふりを続けた。
「ね、姉さんたちと、慰労に回った陣営で、皆、襲われ、て――」
展可は地面に擦れて汚れた袖で顔を隠しながら嘆いた。急に涙は出ない。
番兵たちはヒソヒソと話し合う。
「陣営……王のか?」
「ああ、王は好色だからな。臣も同類だ。もしくは、奏琶国の兵とも考えられる」
好色だと。その言葉、そっくりそのまま使われていたが。
ダムディン王のことを特に庇う気はないが、黎基を一緒にしてほしくないというのが展可の本音である。
「わ、私だけ、なんとか振りきって、逃げてきて、しまいましたが、姉さんたちのことも、心配で……」
「しばらくそこで待て」
番兵はそう言うと奥へと引っ込んだ。上官に事情を話しに行ったのだろう。
ドッ、ドッと心音がうるさく鳴る。小娘一人のためにこの大仰な門を開くものだろうか。
そのまま地面に突っ伏していると余計に体が冷えて、展可は自分の肩を摩りながらうずくまっていた。しばらく待たされて、それから縄梯子が投げ下ろされた。
門が開くものだとばかり思っていた展可にしてみれば、拍子抜けもいいところである。
愕然としていると、武装した番兵たちが高みから声をかける。
「バトゥ様の温情により、砦に匿ってくださるとのことだ。御前で詳しく話せ」
「あ、ありがとう、ございます……」
ダムディン王が言ったように、武真国の女は嫋やかなもので脅威にはならないという認識らしい。あまり強い警戒を抱かれていないのがすぐにわかった。
展可が立ち上がると、番兵たちは展可に縄梯子を使うように促す。
展可は覚悟を決めてその梯子をつかんだ。サクサクと登ろうとして、か弱い女ならそんな登り方はしないかと考えた。
少し進んでは下を見て、高さに怯える。面倒くさい演技をした。
そうしていると、向こうも面倒くさくなったのか、展可が登りきらなくても縄梯子は引き上げられた。
空を見上げると、まだ日が沈むには時がありそうだった。しかし、あまりに遅くから潜入したのでは、いつバトゥのところへ到達できるかもわからない。ある程度余裕を持って入るしかなかったのだ。
そして、展可が連れられていった先は、砦の中で一番大きな家屋である。二階建てのうちの一階、広間に通される。そこにバトゥがいるのかもしれない。
しかし、一人でいるはずはない。家臣を従えているとして、たくさんいては展可も手に負えない。バトゥが部屋に引っ込むのを待つしかないのだ。
広間には王座のような椅子が置かれ、そこに一人の男が堂々と座っていた。
この男がダムディン王の兄、バトゥなのだろう。
展可は、ダムディン王の口調から勝手にバトゥを想像していた。
女好きで、愚かで、だらしない、そんな印象を持っていたのだ。きっと贅沢をして太っていて、動きも鈍いはずだと。
しかし――。
目の前にいる男は展可が思い描いていたバトゥ像とは違ったのである。
年の頃は三十代半ば、肌の色は浅黒く、目つきが鋭い。やはり兄弟だけあってどこかダムディン王に似ていた。ゆるんでいるどころか、よく引き締まっていて、展可はこれを相手にするのかとゾッとした。
「襲われそうになったところを逃げてきたそうだな?」
「は、はい……」
展可は顔を隠してうつむいた。どうしようかと。
今になって不安になったところで、もう来てしまったのだ。この場を乗りきるしか道はない。
すると、バトゥの声が飛んだ。
「顔を上げよ。隠すな」
「はっ……」
展可は手を下げ、腹の辺りに沿えた。短剣は太腿にくくりつけている。
バトゥは展可にじっと目を向けていたかと思うと、言った。
「おぬしは踊りか、歌か、楽器か、何を生業としておる?」
「が、楽器を。琵琶を弾きます。置いてきてしまいましたが……」
この国の者でも琵琶くらいは弾くだろう。この程度で疑われるとは思わない。
バトゥは展可から目を逸らさないまま、家臣に向けて言った。
「琵琶を持て。女たちが持っていただろう?」
「はっ」
やはり、怪しまれているのかもしれない。演奏で食べていけるほどの力量かを試されるようだ。
――まあいい。弾けというのなら弾こう。
ただ、この国の曲をよく知らない。だから、展可が知っている曲を少々作り変えて新しいふうに見せかけつつごまかそう。
家臣が持ってきた琵琶は、手入れが行き届いているとは言えない代物だった。お遊び程度に掻き鳴らすだけのものだ。黎基の剣舞に合わせて弾いた、あの琵琶ほどいい音色にはならないだろう。
しかし、旅の楽団がそれほどいい琵琶を使っているとも言い難く、これで十分なのかもしれない。
「何か弾いてみろ」
展可は恭しくそれを受け取る。付け爪も借りて嵌めると、琵琶を膝に載せて抱き絞めるような形で軽く弦をはじいた。
「では――」
食い入るような兵たちの視線にさらされながらも、展可は琵琶を掻き鳴らす。
もちろん、緊張がないわけはない。極度の緊張の中にあって、かえって余計なことが考えられないだけだ。琵琶を弾くことだけに集中している。
しかし、あまり卒なく弾いてしまうのもいけないかもしれない。逃げてきたのだから、恐怖で体が強張っていて普通だ。度胸がありすぎるというのも逆に警戒される理由になるだろう。
この時、展可が意識して失敗しなくとも、借り物の付け爪は展可の指に合わず、激しい動きには耐えられなかった。右の中指の付け爪が取れ、音が乱れる。音色に聞き入っていたバトゥが顔をしかめたのでひやりとした。
それでも展可は付け爪の取れた指は諦めて他の指で庇いつつ、なんとか演奏を続けた。しかし、弾き終えた時には指が切れていた。
軽く息を弾ませる展可を、バトゥは再び眺め、そしてニヤリと笑った。
「楽士というのは本当のようだな。いい腕だ。よし、今度は曲に合わせて女たちを舞わせてみよう。兵たちのよい気晴らしになる」
芸は身を助ける。展華は頭を下げた。
しかし、気分は焦れるばかりだった。このまま夜通しで宴など催された日にはどうしようかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます