22◇不可避
その部屋にはすでに食事が用意されていて、粥からはあたたかな湯気が上がっていた。
肉も米も、展可が食べるには十分すぎる量であり、待遇のよさにかえって不安になった。
「さあどうぞ、お召し上がりください」
席に着くと促される。空腹では冷静な判断もできず、震える手で匙を握った。しかし、がっつくことはせず、粥を僅かに舌先に載せ、ゆっくりと呑み込む。味つけが変わっていて、何で仕上げているのかわからなかったが、まろやかで美味しい。
多分、展可がこれまでの人生で食べた食事の中で上位に入る上等なものだ。
変なものは混ざっていない。こちらの味つけになじみは薄くとも、美味しいと感じられるものばかりだ。
展可は体が驚いてしまわないよう、ゆっくりとよく噛んで食事をした。その間、女官はただ立っていた。
すっかり食べ終えたが、さあ部屋に帰ろうというわけには行かなかった。
着替えがないからだ。この格好で黎基の前には出られない。
「……あの、私の衣類ですが」
「ただいま洗っております」
――どうしようか。湯殿と食事につられて、少しばかり軽率だったかもしれない。
展可が自分の行動を後悔し始めた時、部屋の戸が開いた。何の前触れもなく。
現れたのはダムディン王である。
まさかと思ったが、本人だ。
展可が目を丸くして固まっていると、ダムディン王は展可を上から下まで値踏みするような視線を投げかけてきた。
「もう少し飾った方がいいな。それから、化粧も軽く施しておけ」
「畏まりました」
女官が驚きもせずに答える。展可は思わず立ち上がった。
「ご、ご馳走様でしたっ」
青くなってこの場から立ち去ろうとしたが、ダムディン王が逃がしてくれるはずもなかった。戸をピシャリと閉めると、笑顔で言う。
「お前に話がある」
「え、そ、それは……」
いい話のわけがない。そんな予感だけした。
しかし、ダムディン王は展可に座り直すように仕向ける。そして、ダムディン王は展可の正面に座った。異国の王と差し向かいで話すなど、とても考えられない状況である。展可が緊張するのも無理からぬことだ。
それでもダムディン王は軽く言った。
「お前たち奏琶兵の中には数名の女が混ざっているな? その中で一番腕が立つのはお前だろう」
「はぁ……」
どう答えるのがいいのかがわからない。ダムディン王の様子を窺いながら展可は続きを待った。
「そこでお前に頼みがある」
にこやかに言うが、相手は王だ。断れることではないだろう。
聞きたくないが、それでは話が終わらない。
「バトゥが籠城を始めていて、これでは長期戦になる。それから、バトゥの兵も我が国の者であるから、こちらに降るのならば赦すつもりはある。むやみに殺すばかりでは青巒国につけ入られるのでな。そこで籠城を解かせ、バトゥだけを仕留めるには奇策も必要だ」
それと展可となんの関りがあるのか。展可は激しく鳴る心臓を押さえながら耐えた。
「バトゥは女好きでな。そろそろ手持ちの女には飽きている頃だろう。目新しい娘がいれば囲い入れるはずだ。お前ならバトゥに近づき、喉元に小刀を突きつけて援軍が来るまで耐えられるな?」
想像していた以上に、ものすごいことを言われた。
展可が愕然としたのも無理はないだろう。言うべき言葉が思いつかない。
「仲間の女を連れていってもいいが、かえって足手まといになる恐れもある。一人の方が動きやすいのではないか?」
「そ、そんな……。籠城をしているところに怪しい娘が来て、どうしてそこで内側に入れると思うのですか? さすがにそんなわけは――」
それでも、ダムディン王は慌てなかった。この男が慌てるところなど想像もできないが。
「うちの国では女は淑やかに育てられている。お前たちのように武術を嗜む女などおらん。女と見て、まず警戒されない」
「そうなんですか……?」
その前に、当たり前のように会話が始まってしまっているが、いつからダムディン王は展可が女だと知っていたのだろうか。
「あの、どうして私が女だと?」
「どうしても何も、見ればわかる。あいつらは男だと言い張ったが、そんなはずはない」
「…………」
見る人が見ればわかってしまうらしい。
再び言葉に詰まった展可に、ダムディン王は笑った。
「お前には色々と使い道がありそうだから手元に置きたいと思ったが、黎基に断られたしな」
霊薬と交換に展可の身柄を要求したのは、こうした場合に使うためだったというのか。随分と先のことまで見通している。
黎基は自分が自由にできるのは自分自身だけだと、兵を物のように与えることはできないと言って断ってくれた。嬉しい半面、黎基自身のことをもっと大事にしてほしくもあったのだ。
ダムディン王は展可と同じように、あの時のことを思い出しているらしかった。
「あの時、黎基は自分が自由にできるのは己の身だけだと言った。だからお前に直接話している。お前はどうする? お前の働きひとつで人死にが格段に減るぞ」
そのひと言に、展可は今し方食べたものが喉の奥から込み上げてくるような気分だった。
また、誰かが死ぬかもしれない。今度また誰かを失った時、展可は後悔せずにいられるだろうか。
これを言われた時点で、立場に関わりなく、断ることがひどく難しいと感じた。
「――私は殿下の兵です。殿下のお赦しがあれば参ります」
黎基は駄目だというかもしれない。けれど、戦で人死にが減るということは何にも勝る魅力だ。行くなと言うかもしれないけれど、本心では仕方がないと納得するのではないだろうか。今の展可と同じように。
しかし、ダムディン王はかぶりを振った。
「黎基の許可を取っていたらいつになるかわからん。機を逃せば意味がない」
「しかし――」
内緒で出ていったら、黎基は展可を捜すだろう。大体、それでは展可が逃亡兵になってしまう。
そう思ったこともダムディン王は見通していた。
「俺が用事を言いつけたということにしておく。一日もかからず決着はつくはずだ。それでも、黎基には偽りを伝えることになる。そこでだ、お前とは取引をしよう」
「え?」
ダムディン王の目が展可を射抜く。こうなっては、獅子の前に引きずり出された獲物に過ぎなかった。もともと対等に話せるような人ではないのだ。
「地下牢に、羅瓶董という男がいる」
「っ!」
展可が見せた動揺を、ダムディン王はふと目を細めて笑った。
「お前がバトゥの籠城を解かせ、無事に戻ってきたら会わせてやろう」
「そ、その男は奏琶兵です。いかにダムディン陛下といえども……」
「黎基は俺に借りがある。まっとうな兵なら寄越さないが、他者を巻き込んで死なせ、刑罰を待つばかりの者など、最早ただの罪人だ。寄越せと言ったら断らなかった」
呆然とする展可に、ダムディン王は畳みかける。
「お前が嘆いているのを見た。先の戦いで誰か亡くしたのだろう? あの男のせいではないのか」
他国の王であるのに、些細なことまで目に留め、そして覚えている。
こうしたところが怖い。敵には回したくない男だ。
「あ、会わせてやると仰いますが、私は会ったら何をするかわかりません……」
全を直接殺したのは敵兵だ。しかし、最も悪いのは瓶董だと思っている。
そんな展可と瓶董が顔を合わせたら、展可は心のままに害するだろう。
しかし、ダムディン王の表情が、それでいいと語っていた。
「好きにすればいい。もしこの作戦が上手くいけば、お前はかなりの功績を挙げたことになるからな。どうせ死を待つだけの男なのだから、構わん」
魔物のような誘惑を、ダムディン王は展可に仕掛けてくる。けれど、一番問題なのは、展可がそれを突っぱねられないことだ。
目の前に吊るされた餌が甘美で、展可は頭の端が痺れるような感覚がした。
「やってくれるな?」
人死にが減る。それだけで断りづらかったことが、最早不可避の災厄のようにして展可に迫る。
展可は無言のままにコクリとうなずいた。
ダムディン王もうなずいた。思い描いた通りの展開であったはずなのだ。
彼が描いた道筋通りに、運命は動く。
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