20◆鹿の餌
黎基の腕の中で、展可が力を失っていく。
疲れ果てて気を失ってしまったようだ。泣き腫らした目が痛々しい。
――どれくらい泣いていただろう。
展可が体を震わせるたび、黎基の心も痛んだ。
黎基は、展可自身が無事であればそれでよいと思っていた。
だから、目の届くところに置いていた。それが、こんなにも心を傷つける出来事が起こってしまった。
それを回避してやれてなかった自分にも腹が立つし、それを起こした元凶も赦しがたい。昭甫はまだ皆から話が聞けていないから、今は処罰を待てと言った。
元凶となった一兵士はとりあえず牢に繋いである。
黎基は、展可の悲しみを前に、処刑すればいいと冷淡に考えた。
しかし、昭甫は黎基にそれをさせたくないのだ。
慈悲深い親王を演出してきたからこそ、容易く首を刎ねたのではいけないと思うのだろう。
この場合、慈悲深いというのがそもそもの間違いなのかもしれない。
黎基は血で汚れた展可を抱き上げながら思う。
自分は、大事なものを護るためには残酷な決断もする。すべてにおいて優しいなどということはない。
黎基の護りたいものを傷つける、裏切りには死を――そんな苛烈な面も持ち合わせているのだと知っている。
むしろ、一度火がつけば抑えられない性質だ。今までは盲目を演じていた分だけ昂ることがなかったが、今は枷が外れて本来の自分になった。そんな気がする。
優しくしたい者にしか、人は優しくない。
そのまま展可のそばで朝を迎えた。
戦の名残か、眠れそうになかったのだ。
けれど、展可のあたたかさを感じていると癒されるような心地がする。この状況でそんなことは、とても言えないけれど。
すると、部屋の戸が叩かれた。
少し体はだるいが、黎基は戸の前まで行って誰何する。
「誰だ?」
すぐに開けたりはしない。まだ命を狙われているかもしれないとは思っている。
そうは言っても、雷絃か昭甫だろうと思った。それが、ダムディンであった。
「黎基、俺だ。話がある」
「陛下? ……はい」
眠ったままの展可を残していくのは気がかりだが、ダムディンの用事は戦のことだ。それを後回しにするわけには行かなかった。
起きたら戸惑うかもしれないが、何かを伝える間もない。黎基はダムディンが中を覗かないように素早く外へ出た。
ダムディンはこれといって興味もないのか、淡々とした口調だった。
「バトゥの軍は護りを固めている。その打開策を練りたいところだが」
林での騒動が武真兵たちの足を引っ張ったと言えなくはない。あれがなければ、一気にバトゥのところまで駆け上がり、雌雄を決することができていたとダムディンは考えているはずだ。
それに関して、黎基も何も言えない。
「雷絃と昭甫も呼びます。何かよい案があるといいのですが」
立ち話で済ませる内容ではない。双方の将と共に策を練るべきだろう。
しかし、ダムディンは黎基をじっと見た。
「籠城されたのでは埒が明かん。少々の奇策は必要だ」
「しかし、兵糧攻めも青巒国の援助があれば無駄でしょう」
むしろ、長引けばこちらの方が先に干上がりそうだ。黎基たちの軍はもともと兵糧が少ない。追加も受けられないのだ。
ダムディンはふむ、と言ってうなずいた。
「ところで黎基、お前は俺に恩があるな?」
嫌な言い方をする。
しかしここで、ないとは言えない。自分の立場はわかっている。
「ええ、ございます」
すると、ダムディンは底まで見通せない闇夜のような目を向けた。背中で汗がしたたり落ちるほど不吉な予感がした。
「牢に繋いである男をもらえるか?」
「えっ?」
思わず素の声を漏らしてしまった。
牢に繋がれているのは、羅瓶董という命令違反を犯した兵である。この男のせいで展可の師は戦死したのだ。いずれは処罰するだけのことだというのに、ダムディンがその身柄をほしがった。
何故だ。一体、何を考えている――。
腹の底が読めない。
「お前は以前、自らに従ってくれる兵は、自分の持ち物ではないと答えた。だが、あれは罪人だ。最早、兵として扱うものではない。己に従わなかった愚者を尊重してやる義理もないだろう」
「……あの男は軍規を軽んじ、仲間を死に追いやりました。そのような男を何故欲するのでしょう?」
ただの一兵士だ。むしろ、性根の腐った。
それでも兵力として殺すのは惜しいと思うのか。ここで助けてやれば心を入れ替えてダムディンのために尽くすと考えるのなら、それは甘い。ダムディンがそんなにも甘いことを考えるとは思えない。
目的はなんなのだ。
「俺の兵を案内役に貸していただろう? その兵も、やつのせいで負傷した。お前が処罰しないのなら、俺がする。やつに恨みを持つ人間の餌にしてやろう」
林に同行した武真兵も負傷したのは事実だ。とはいえ、軽傷の部類ではある。
それでもダムディンは赦せないと考えるのか。黎基に任せておいたのでは、仲間の武真兵たちが納得しないのか。
黎基はダムディンの真意を測りかねた。
しかし、ここに雷絃も昭甫もいない。頼れるのは自分の頭だけだ。
瓶董が惨たらしく死ねばいいと、きっと誰もが思っている。黎基としても、正直に言うなら、どんな目に遭おうとも知ったことではない。ダムディンに譲って弊害があるとすれば、それは自分で処罰しなかったことが心残りになるだけだ。
「処罰しないわけではございません。ただ、審議をしてからというだけです。陛下は、彼を生かすつもりはないと仰るのですね? 厳しく罰すると」
なんとか会話からダムディンの真意を探ろうとした。
けれどダムディンは笑うばかりだった。
「そうだ。生かすつもりはない」
「どのように処罰されるのです?」
それを知りたいのに、ダムディンは言いたがらないのだ。そのことに不安を覚えつつ、それでも今の黎基ではダムディンに逆らえないのである。
「餌だと言っただろう? そうだな、鹿の餌といったところか」
「鹿?」
鹿が人など食うわけがない。
それでも、ダムディンは黎基に答えを急ぐ。
「この鹿が今回の戦の切り札になる。黎基、返事は?」
謎かけのようなことを言う。戦の切り札だと。
あの男を処罰することで、自軍の士気を高めることができると考えているのか。
ダムディンには何か考えがあり、それは戦を終わらせるためのものなのだ。それならば、逆らう必要はないのだろうか。
「……お譲り致しましょう。けれど、決して逃がしたりはなさいませんように」
それを聞くと、ダムディンは目を細めて笑った。
それでいいとばかりに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます