19◇さまよう心

 展可がしばらくして、少しくらいは気持ちが落ち着いたと思えた頃に策瑛が目を覚ました。


「よく寝た」


 傷だらけのくせに、そう言って軽く笑う。その笑みを見た時、策瑛はもう大丈夫だと感じた。劉補佐にも教えてあげたい。

 策瑛も劉補佐のことが気になったようだ。横になったままで訊ねてくる。


「昭兄は?」

「劉補佐なら砦に戻ったよ。殿下のところじゃないかな」


 そういえば、展可は護衛のくせに黎基に断りもなく勝手な行動をしている。きっと呆れているだろう。そう思うと戻りづらい。


 策瑛は僅かに首を揺らした。多分、うなずいたのだろう。


「昭兄は同郷で……」

「面倒を見てもらっていたの?」


 袁蓮が策瑛の顔を覗き込んでクスリと笑った。

 いくら子供の頃の話とはいえ、あの劉補佐が他人の面倒を見るところが想像できなかったのだろう。それは展可も同じだった。

 策瑛はそんな二人を眩しそうに見上げる。


「面倒を、よく見た」

「え?」

「昭兄は友達がいなかったから」

「……」


 それはいない気もするが。

 策瑛は目を瞑り、ボソボソと話す。


「ひ弱で、いじめられっ子で、でも絶対に折れない頑固者で、喧嘩になると仲裁に行った」


 年下の策瑛に庇われていたと、そういうことらしい。

 養子に行ったというようなことを言っていたから、劉補佐がむらを去るまで、二人の関係はどちらが年上だかわからないものだったのだろう。


 そんな過去は、劉補佐も忘れたかったのかもしれない。だから、策瑛を知らないと言った。


 けれど、策瑛を推薦したのは劉補佐だった。策瑛の面倒見のよさ、人から慕われる人柄を知っていたからこそだ。策瑛ならば皆をまとめ、無事に作戦を終わらせてくれると信じた。

 それが、こんな結果になってしまったけれど――。


「なんとなく、わかる気がするわ」


 袁蓮までそんなことを言って苦笑した。


「でも、それが殿下のお付きになったんだから、劉補佐もきっと努力されたんだね」


 一応は庇っておく。そうしたら、策瑛も目元を綻ばせた。


「うん、もちろん」


 長らく会っていなかったとはいえ、策瑛は幼馴染のひ弱な少年を時折思い出し、元気にしているだろうかと気にしていたのだろう。

 策瑛は本当に優しい。


 そこで策瑛は展可をじっと見上げ、それから眉根を寄せた。どこか痛むのかと思えば、一番痛むのは心のようだ。


「展可、ごめん。尤さんのこと……」

「策瑛のせいじゃない」


 策瑛のせいではない。あれは瓶董のせいだ。

 だから、策瑛に謝ってほしくなかった。それでも、策瑛は頭を揺らした。


「俺が先に負傷したから、尤さんを止めきれなかった。ごめん」


 戦だから。誰かが死ぬ。

 そんなことはわかっていたはずが、そのが自分の近しい人である覚悟が足りなかった。取り乱して、あの時に黎基に危機が訪れていたら庇いきれただろうか。


「……そろそろ戻るよ。劉補佐にも策瑛は大丈夫だって伝えるから」


 故人の話をしているのがつらくなって、展可は立ち上がった。策瑛は、ん、と小さく返した。



 天幕を後にすると、姜の里から共に来た男たちと出くわした。

 皆、展可を見てあっ、と口を開ける。しかし、名を呼ぶのを躊躇った。

 皆、かすり傷ひとつなく無事のようだ。展可は彼らに駆け寄る。


「皆、師父のことは……」


 全が死んだことを皆はすでに知っていた。目に涙を浮かべてうなずいている。


「聞いたよ。尤先生がいないなんて、これからどうしたらいいんだろう。里の皆になんて言えばいいんだ……?」


 展可も涙を堪え、声が震えないように拳を強く握った。


「私も、たくさんお世話になったのに」

「お前のことをとても心配なさっていたよ」

「うん……」


 そうして、展可は懐から全の遺髪を取り出した。それを男たちに渡す。


「これしか持ち帰れなくて。それでも、里に帰して差し上げたい。私は前線にいることが多いから、私がこの遺髪を持ち帰れる自信がないんだ。この遺髪を預かって、どうか里へ持ち帰ってほしい」


 展可がそれを言うと、皆が躊躇った。


「そんなこと言うなよ。晟伯せいはく先生が悲しむだろ?」


 久しぶりに聞くその名に、弱った心が揺さぶられる。

 兄の顔が見たかった。話を聞いて、慰めてほしかった。必ず帰ると言った約束を破りたくはないけれど。


 展可は曖昧に答え、全の遺髪を手渡すときびすを返した。



 また胸の奥がズキズキと痛みを覚える。

 瓶董はどこにいるのだろう。彼に命令違反の罰が下されるとして、まだそれが執行されているとは思わない。どこかに拘束されているのだろう。


 それは一体どこなのか。会って、ひと言謝らせたい。幾人もの命を奪ったのは己の愚行なのだと悔いさせたい。

 しかし、瓶董がどこにいるのかを訊ねて回ったところで誰も教えてくれない気がした。むしろ、展可から遠ざけてしまうのではないかと。


 展可はぼうっと、砦の中をさまよう。もしかすると、ここの牢に入れられているのだろうか。それはどこにあるのだろう。


 黎基の借りている部屋は砦の上層にあり、下の階をろくに歩いたことはなかった。戦を終え、皆が休息を取っているのか、すれ違う人があまりいない。思えばもう陽が沈みかけていて薄暗いのだ。黎基もそろそろ眠る頃か。


 展可はなんとなく自分の手を見た。袖も前身頃まえみごろも全を抱き起した時に染みついた血で汚れている。こんななりで黎基の部屋へは戻れない。


 けれど、まだこの血を落としてしまう気にはなれなかった。

 この血を瓶董に見せてやりたい。お前が殺したのだと。


 しかし、彷徨う展可の前方に人影があった。誰だろうかと目を凝らすと、それは黎基だった。薄暗い中、ただ一人で立っている。


「で、殿下?」


 黎基は戦衣を脱ぎ、いつもの深衣に着替えていた。展可の姿を認め、黎基はスタスタと展可に歩み寄ると、展可の手首をつかんだ。


「こんなところにいたか。戻るぞ」

「あ、あの……っ」


 薄汚れた展可の手を、汚れのない黎基の手がつかむ。

 展可が気にしても、黎基はまったく気にした素振りを見せず、暗がりを明りも要せずに進んでいく。展可の方がつまずいてしまいそうだった。


 黎基は展可を自分の部屋に連れ帰った。窓から差し込む僅かな灯りで黎基の顔が見えたが、いつものように優しく微笑んではいなかった。

 勝手な行動を叱られるのだとばかり思った展可は、うつむくしかない。それでも、黎基は展可の手を放さなかった。


「展可、君の師父のことだが……」


 ビクッ、と肩を震わせた展可に、それでも黎基は柔らかく続ける。


「すまなかった。だが、あの場で一人だけ連れ帰るわけにはいかなかったのだ」


 まさか黎基が、それを気に病んでいるとは思わなかった。立場上、仕方のないことだ。それを一兵士に謝るとは――。


「……い、いえ、あの時は取り乱して申し訳ございませんでした。私は殿下をお護りする立場ですのに、他のことに気を取られ、役目を疎かにしました。それこそ、師父に叱られてしまう体たらくで――」


 叱るだろうか。叱ってほしい。


 『本物の展可』が稽古を怠けてばかりいた時、全はよく、低い声で叱りつけた。

 あの声が懐かしい。無性に聞きたくなる。


 そんなことを考えてしまうから、声が揺れる。

 黎基の前でみっともなく泣くような真似をしてはいけない。親指の爪を立てて握り込む。感情を押さえつけようとした、その時――。


 視界が遮られた。それが何によってなのか、すぐには考えられなかった。

 黎基が展可の手を引き寄せたのだ。血に塗れた展可のことを、黎基が抱き締めている。

 それは何故なのか。何がそうさせるのか。


「よ、汚れてしまいますから……!」


 眩暈がするような動揺の中、精一杯の言葉がそれだった。しかし、黎基は腕をゆるめなかった。むしろ、さらに強く巻きつく。


 ――あたたかい。

 武真国の肌寒さが人のぬくもりを際立たせる。


「すまない……」


 それを繰り返しながら、黎基は展可を抱き締める。

 あまりにも非現実的な状況に、展可の思考は擦り切れた。

 堪えていた感情が一気に、堰を切って溢れるには十分な衝撃だった。戸惑い、不安、悲しみ、憎しみ、切なさ、望郷、色々なものが入り混じって、それが涙に溶け込んでいく。


 声を殺して泣く展可の頭を、黎基の手がそっと撫でた。

 この人は、側仕えの一兵士のためにここまで寄り添って接してくれるのか。


 嬉しい半面、恐ろしくもあった。

 近づきすぎて、ついには離れられなくなるのではないかと――。

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