8◇ぼんやりと

 民兵の皆は砦の一角で雑魚寝しているというのに、展可は黎基の部屋に控えていた。劉補佐もいつの間にか代わってくれなくなり、毎日こうして黎基の側にいるのは展可の役目になっている。


 しかし、それももうすぐ終わる。

 黎基の目が見えるようになれば、こうした介助は要らなくなる。


「殿下、こちらです」

「ああ、ありがとう」


 しんだいへと手を引き、黎基を座らせる。こんなふうに手を取り合い、触れ合うことはこの先なくなるのだ。そう思うと、少しだけ寂しいような切ないような気にもなる。

 馬鹿だな、とそんな自分を嘲るしかない。


 それよりも、何よりも、黎基が展可の顔を見て昔の面影に辿り着かないか、その心配をしなくてはならなくなる。

 成長して、展可は変わった。多分、容易に気づけないほどには。


 大体、里を出るなと言いつけられているのだし、こんなところにいるはずがない者なのだ。結びつけて考えることはないと思うが――。


「部屋から出ぬようにな。ダムディン陛下に出くわすといけないから」


 しんだいに腰かけつつ、黎基は展可の手を握り締める。ドキリとするけれど、震えが伝わってはいけないと気を取り直す。


「あれは殿下をお試しになったのであって、他意はないと思われます」

「それでもだ」


 黎基は、横になっても何故か展可の手を放そうとしなかった。しばらく、寝つくまでは展可も控えているしかなかった。


 整った黎基の寝顔を見つめ、どうしようもない幸福感を持て余していた。胸が高鳴り、痛いくらいに主張する。

 今後、この人のそばを離れられるのかと。

 いつかはその日が来るというのに。



 翌朝、身支度を整えた黎基は、展可を部屋に残して劉補佐と共にダムディン王のもとへと向かった。

 展可は黎基が戻ってくるまでの間、気が気ではなく、祈るようにして待つだけだった。


 ダムディン王は本当に霊薬を与えてくれるのか。その霊薬は本当に効くのか。毒ではないのか。

 考え出したらきりがない。冷や汗がじっとりと滲む。


 どれくらいそうしていただろうか。外から兵たちが鍛錬する声が聞こえてくるけれど、展可はそこに混ざる気になれなかった。


 ――やっと、黎基が戻ってきた。相変わらず目の周りには布を巻いていて、劉補佐の手を借りている。


「で、殿下……」


 しかし、黎基は口元だけで微笑んだ。


「霊薬を頂いた。しかし、すぐに効果が出るものではないのだろう」

「おめでとうございます!」


 展可の目に涙が浮かぶのを、劉補佐は面倒くさそうに眺めていた。


「三日ほど様子を見るようにとのことだ。その間、もしダムディン陛下が出陣する時は雷絃殿が共に向かう。お前は待機していろ」

「はい!」


 これで本当に黎基の目は見えるようになるのだろうか。

 薬が効いてくれたらいい。期待させるだけで効果が出なかったらという不安もあるけれど、黎基は薬の効き目を疑っていないようだった。


 劉補佐が去り、展可と黎基だけが部屋に残される。この時、椅子に座っていた黎基は不意に目に巻いていた布を外した。

 そして、そうっと目を開いた。


 くっきりとした二重で、幼い頃の面立ちを残す。あの美しい母堂に似た顔立ちが、瑕疵もなくそこにある。透き通る宝玉のような瞳が展可に向けられた。


 焦点が合っているとは言い難い。けれど、こうしていると目が見えないとは思えなかった。


「い、いかがですか?」


 恐る恐る展可が訊ねると、黎基は微笑んだ。一切隠されなくなった黎基の笑顔の破壊力を、展可はこの時まざまざと感じた。胸が痛い。


「展可、こちらにおいで」

「は、はい」


 犬のようにして、呼ばれてすぐに駆けつける。そんな展可の手を取り、黎基はさらにそばへと引き寄せる。


「あっ」


 思った以上の力強さで、展可はよろけて黎基の膝に座るというとんでもない失態をやらかしてしまった。

 それなのに、黎基は展可の顔を両手で包み込み、吐息がかかるほどの至近距離で言った。


「……ほんの少し、ぼんやりと、近づけば見える。展可の顔をよく見せてくれ」


 それは、霊薬の効果が出かかっているということだ。展可は嬉しくて涙が止められなかった。

 黎基の手にも展可の涙が伝う。黎基はそれをそっと拭った。


「殿下……」


 この時、展可は言葉にはできないような気持ちでいた。

 そんなことがあるはずもないのに、展可に触れる黎基の手が優しく、愛しげに思えて、束の間の夢を見せてもらっている気分だった。


「これから戦は本格化する。私も後方で控えているのではなく、ダムディン陛下や雷絃と轡を並べていたいと思うのだが、だからといって、展可は私についてきてあまり前に出ぬようにな」

「わ、私は……っ」


 いくら目が見えるようになっても、十年もの間、見ずに過ごしたのだ。勘が戻るまでにしばらくかかるのではないだろうか。心配は尽きない。


「いいか、展可が無事でいることで私が安心できると思ってくれ」


 じっと、まっすぐに目を見て話す。この距離が心を乱す。

 上手く頭が働かない。展可はぼうっとしたまま、はい、とだけ答えた。


 兄にもこのことを伝えたい。きっと、心から喜ぶはずだから。

 伝える手段がないことを残念に思った。

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