43◇越境

 展可はこの時になって、自分が武真国に対してあまりに無知であることを自覚した。

 この砦を越えれば、そこはもう彼の国だというのに。今さら誰に何を聞けばいいのかと戸惑うばかりだ。


 黎基たちとは離れていた。黎基や郭将軍は今、砦で武真国の兵と話している。緊迫した場で、側仕えでしかない展可がいても邪魔になるだけだ。


 展可は策瑛たちのところに行こうかと、民兵たちの方へ足を向ける。すると、さっそく嫌な人物に出会ってしまった。瓶董へいとうだ。


 それも、袁蓮の尻を追いかけている。この殺伐とした軍の中で、ひと際目立つ美少女の袁蓮に目をつけていたようだ。

 さっさと歩く袁蓮のすぐ後ろから、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべてつきまとっている。神経を逆撫ですることばかりささやかれているに違いない。


 袁蓮はというと、それでも慣れた様子で受け流して見えた。放っておいても彼女なら、波風を立てずに躱せるのかもしれない。

 それでも、女性である以上、不快感や不安はある。展可は見て見ぬ振りもできなかった。


「袁蓮!」


 声をかけて駆け寄ると、瓶董は露骨に嫌悪を見せた。展可は目の敵にされているのだ。これは多分、一生変わらないことだろう。


「あら、展可」


 袁蓮はあっさりとした口調で、それでも優美に微笑む。邪魔をされた瓶董は薄暗い顔で低くつぶやいた。


「下民が、俺の前をうろつくな」


 展可はこの物言いに目を細めてしまったが、グッと堪えて袁蓮の手を取った。


「……ああ、そう。じゃあ行こうか、袁蓮」

「え、ええ」


 逆らうでもなく、袁蓮は展可と共に駆け出す。けれど、助けてもらって感謝しているというよりも呆れているように見えた。


「あんた、こんな露骨なことすると、また面倒なことになるわよ。あたしなら、戦が終わったら――とかなんとか、思わせぶりなことを言って気を持たせて、からかってやるだけなのに。あんたはあんたの心配だけしてなさいよ?」


 それでも、友達だと思えば放ってはおけない。袁蓮なら瓶董を手玉に取れたとしても。


「袁蓮は友達だし、女の子なんだから、心配するよ」

「あんただってそうでしょ。……でも、まあ、ありがとう」


 友達という言葉が嬉しかったのだろうか。袁蓮はほんのりと頬を染めた。こんな表情を男が見たらイチコロだろう。

 フフ、と笑う袁蓮は同性から見ても綺麗で――しかし、この花には棘がびっしりとあるのだけれど。



 袁蓮を策瑛たちのところへ送り届けると、戻る途中で久しぶりに姜の里の尤全ゆうぜんの姿を見つけた。


「師父!」


 嬉しくなって駆け寄ると、全はハッとして辺りを見回しつつ展可の方に歩んできた。


「殿下をお助けして、おそばに取り立てられたと聞いたが……」


 展可の本当の名を口にしてしまわないようにか、全は名を呼ばなかった。展可は、はいと答えた。

 全は、言いにくそうに声を潜める。


「その……平気か?」


 『展可』ではないことを知られてしまわないかと心配してくれているのだ。展可は苦笑した。


「ええ、どうにか。そういえば、師父に教えて頂きたいことがございます」

「うん? なんだ?」


 全は顎を摩りながら首を傾げた。


「武真国のことを私はあまりよく知らないと思ったのです。戦に行くからといって知る必要はないのかもしれませんが、師父が御存じのことをお教え頂きたいのです」


 戦は目の前の敵を倒すだけのこと。駒である一兵士が知らずともよいのかもしれない。それでも、聞いておいて損はないと思えた。

 黎基たちのそばにいるのだから、知らないよりは知っていた方が絶対にいい。


 全は眉を軽く動かし、それからうなずく。


「そうだな、武真国の歴史は常に戦いに明け暮れていたと言っても過言ではない。ひとつの国として統一されたのは、今からまだ百五十年くらい前で、諸侯は武真国に降った王族の末裔だ。その諸侯は虎視眈々と簒奪を狙っていたのかと言えば、そうではない。完膚なきまでに叩きのめされ、躾けられ、今となっては従順なものだという」


 やはり、全は里にずっと留まっていたわけではないから、世間を知っていた。

 展可は素直にうなずきながら続きを聴く。


「それというのも、王の手腕によるところが大きい。武真国は完全なる実力主義だ。先に生まれたから王太子であるということはまずない。現国王も確か、もとは第八王子だったらしいな」

「武真国が戦っている青巒国せいらんこくは、武真国より国土も狭く、何かにつけて勝っているとは言えませんが、それでも苦戦しているのですね」


 青巒国が陸続きなのは武真国のみであり、国土を広げようと思えば武真国を制圧するしかないのだ。 奏琶国を始めとする他国に攻め入ろうにも、近場に船が接岸できる場所は少なく、長い船旅に兵を送り出すのも容易ではない。


 唯一手が出る武真国にしても、昔のようにいくつもに分裂した国であった頃ならいざ知らず、今ではそれも難しいというのに、変らず隙を見ては攻めてくる。武真国としてはいずれ滅ぼしてしまいたいところかもしれない。


「本来であれば何も問題はなかっただろうが、先の災害による被害が思いのほか響いているということだ。二年経つが、二年経ったからこそ起こる問題もあるだろう」


 災害は恐ろしい。人の力で防ぎきることはできないのだ。火が迫った邑里むらざとで死者も出ただろうし、田畑も焼けたのでは作物も当分育たない。立て直しに力を上げているところ、背後から攻め入られた形なのだ。それは猫の手も借りたいところだろう。

 ただ、この寄せ集めの兵を見て武真国の人々ががっかりしないといいのだが。


「……武真国の王はどのような人物なのでしょう?」


 まず、そこが気になる。

 盲目の黎基が兵を率いてきたのだ。不自由な身でよく来てくれたと感謝してくれるのか、それとも、戦えもしない者をよくも寄越したものだと激昂するか――。


 そう考えてみて、後者ではない気がした。

 窮地にある今、怒ったところでなんの利も生まない。王ならばそれを知らねばならないのではないだろうか。


「十九代国王ダムディン陛下は、御年二十四歳。まだお若いが、なかなかの人物であるという」

「そ、そんなにお若いのですか?」


 兄の晟伯よりも年下だとは思わなかった。その年で国をまとめるのだから、それは傑物だろう。


「ああ。先代の国王陛下は昨年お隠れになったばかりだから、即位されてまだ一年だが」


 展可が直接かかわることはないだろうけれど、一筋縄ではいかない人物のような気がする。展可の基準は何を置いてもまず黎基なのだ。だから、黎基にとって厄介な存在でなければいいと思う。


 その時、全は待機を続ける小隊の様子を眺めていた。策瑛が朗らかに皆と話し、袁蓮は退屈そうに座ってあくびをし、鶴翼はまたしゃがんでうずくまっていた。考え事でもしているのだろう。ああいう時は放っておくに限る。


 ――変なのが多いな、と思われたのかもしれない。実際、変なのが多い。

 しかし、全のところにも厄介な男がいる。


「師父のところの瓶董へいとうという男ですが、どうにも物言いが挑発的で、殿下を軽んじるようなことも平気で口にします。師父にも礼を欠いた物言いをするのでしょう? 何かと気苦労が絶えないことかと存じますが……」


 その名を上げると、全は苦笑した。その表情は、展可に心配をかけないようにしているように見えた。


「ああいう手合いはいつでもおる。お前こそ、挑発に乗らぬように気をつけなさい」


 お前は女なのだから、と続けたかったように感じられた。

 それはわかっているつもりだ。展可はうなずいた。

 全は空を見上げ、それから遠くを見遣った。


「――どうやら、そろそろ国境の門が開くようだ。ここからが本番。晟伯が待っておる。必ず生き延びるのだぞ?」

「はい、もちろんです」


 長く連なった外郭の門が、重々しい音を立てて開く。

 展可はその先に待つものをまだ知らない。

 けれど、どこに行こうと黎基を護るという点において迷いはない。


 いざ、武真国へ――。



〈 第1部 ―了― 〉

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