31◇眠りにつくまで

 燭台の灯りがほんのりと照らす天幕の中、衣擦れの音が展可の耳をくすぐった。黎基が立ち上がったのだ。


 ふと考えてみる。

 体を拭いたり、着替えたり、そんなことも手伝わなければならないのだろうか。

 その可能性に突き当たり、展可の心は乱れたが、それを顔には出さないように真顔になった。

 しかし、黎基は見えないのだ。そんな顔をして隠す必要はなかった。


「……展可、私がいいと言うまで少し後ろを向いていてくれるか?」

「はい」


 言われるがままに後ろを向くと、また衣の擦れる音がする。どうやら着替えているのだとわかった。

 見えなくとも、それくらいのことは自分でできるらしい。


 多分、今、黎基は体を拭いている。

 近寄ることすら困難だった尊い人が、半裸ですぐそこにいるという状況に眩暈がしそうだった。


 綺麗な人だから、きっと綺麗な体をしている。想像してしまいそうになってゾッとし、展可は思わず耳を塞いで目を閉じ、すべてを遮断して無の境地へ向かった。

 ただ、少しばかり無心になりすぎた。


「――か。展可?」


 黎基の呼び声に気づくのが遅れてしまった。


「は、はい! すみません、ぼうっとしてしまって」

「いや、疲れているのだろう? 気にしなくていい」


 そう言って微笑んだ黎基は、薄い寝衣一枚になっていて、いつもは目の周りに巻いている布も取り払っていた。目は伏せているものの、黎基の顔を改めて見ることができて、展可は感動に震えていた。

 やはり、黎基は母親に似てとても整った面立ちをしている。ほのかな明りの中で長い睫毛が影を落とす。

 それは絵に描いたように美しかった。


「すまないが、床に行かせてくれないか」


 と、黎基は手を差し出す。黎基の顔に見惚れていた展可は、ハッとしてその手を握った。そして、即席で組まれたしんだいの上に導く。手がしんだいの縁に触れると、黎基は展可に顔を向けて微笑んだ。


「では、私は休ませてもらおう。展可もこのまま休むといい。――そうだ、私が寝入るまで少し話をしてくれないか?」

「話、ですか?」


 展可はきょとんとして敷物の上に座り込む。黎基は目を瞑ったままで苦笑した。


「なんでもいい。君のことを語ってくれ」


 ギクリとした。まさか、早々に正体を見破られてしまったのだろうか。


「わ、私は、平凡に育ったので、私の話など殿下には退屈かと存じます」


 慌てて言ったが、黎基は引かなかった。


「平凡でいい。民の暮らしが知りたいのだ」


 こうして接してくれるものの、本来なら住む世界の違う人だ。展可たちにはなんの変哲もない庶民の暮らしでさえ物珍しく感じるのかもしれない。

 展可はひとつ息を吐くと、きょうの里での暮らしを思い浮かべた。以前の、父と暮らしていた頃の話はしない。当たり障りのないことを語ろう。


「そうですね……。朝は日の出と共に起きて、まず食事の支度から始めて、兄が起き出してきた頃に――」

「展可には兄がいるのか?」


 いきなり墓穴を掘ってしまった。展可に妹はいても兄はいないのだ。

 しかし、わざわざ裏を取ったりはしないだろう。ここは上手くごまかすしかない。展可は内心では焦りつつもなんとか話を流す。


「ええ、まあ。それで、食事を取った後は武術の稽古、家事、畑の手入れ、それから、里の人たちの手伝い――何かとやることはあって、それが終わったら夕餉の支度を」

「……忙しいのだな。展可が育ったのは小さな里のようだ。里人たちは皆、優しいのだろうな」

「ええ。いつも助けてくださいました」


 最初は余所者が来たと相手にされなかったが、徐々にそれも和らいで、素性の知れない一家を助けてくれた。里の人々は優しかった。

 他愛のないことを語っているようでいて、つらかったことも思い起こされる。声がしんみりとしてしまった展可に、黎基の声は気遣うようだ。


「どうした?」


 我に返った展可はかぶりを振った。


「すみません、話しているうちに里心がついてしまいました」

「それはすまない。本来であれば、戦などに民を連れてゆきたくはないのだが……」

「殿下のせいではございません。人が生きる以上、戦は起こるのでしょう。なるべく最小限に留まればよいのですが」


 黎基が微かにうなずいたのがわかった。

 展可は、こんなことを口にしていいのかと迷いながらも黎基に問いかける。


「あの、殿下は御目を患われてからご心痛が絶えることはなかったかと存じますが、それでも、ほんの少しでも喜びをお感じになれる時はございましたか?」


 冷遇され、悲しいばかりの毎日であったのだ。それでも、どこかに救いはあるのか。展可はそれをどうしても知りたかった。

 展可が手を差し伸べられることではないとしても。


 すると、黎基は展可の方に顔を向けないままで静かに答えた。


「人を目で見ぬようになってから、人の心にかえって敏感になった気がする。だからこそ、昭甫や雷絃のように二心なく仕えてくれる者たちのありがたみがわかる自分になれた。二人の心を感じると嬉しく思う」


 郭将軍はともかく、劉補佐も黎基にとっては忠臣らしかった。

 これを聞けて、展可が心からほっとしたことも黎基には伝わってしまったらしい。


「展可も私の身を案じてくれるのだな。今の私はそれに報いる力はないが、礼だけは言わせてもらおう」


 その言葉に、展可が声を詰まらせたのにも気づいたのだ。黎基は優しく言った。


「長く話し込ませてすまない。おやすみ、展可」


 なんて心の清らかな方だろうかと、展可は胸がいっぱいになった。

 黎基の目が元通りになるのなら、展可は命でさえも差し出したいとさえ思える。そうしたら、黎基はきっと歴代のどんな皇帝よりも長く語り継がれる賢帝となるだろうから。


 兄も目によいとされる薬を作り続けているが、黎基の目が見えるようになるのは夢のまた夢だと、本当はわかっている。


 展可は、横になった黎基の背中を眺め続け、そうして睡魔に襲われると丸めてあったむしろを広げて眠った。疲れていたらしく、案外すぐに寝入ってしまった。

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