32◆買い被り

 展可の寝息が天幕の中で聞こえた。

 黎基は落ち着かない気持ちでそちらに顔を向け、うっすらと目を開ける。


 皮肉なことに、黎基は見える目の動きを隠すために日々目元に薄布を巻いているおかげで、常人よりも夜目が利くのだ。暗い天幕の中でも多少は見える。

 展可はよく眠っているようだ。寝顔があどけない。


 ――言葉を交わすたび、展可は裏表のない娘だと思えた。

 力強くて、心優しい。


 欲を言えば、もっと正面からなんの遮りもなく顔を見たかった。こうして眠っている時にこっそりと見るくらいしかできないのがもどかしい。


 気に入ったのなら手をつけてもいいとばかりに、昭甫がここに展可を置いていったのだとしても、そんな気にはなれなかった。

 展可が純真に黎基を慕ってくれているのをひしひしと感じるのだ。

 この娘には嫌われたくないと黎基は思った。なるべく、彼女には誠実でありたいと、暗闇の中で苦笑した。



 朝になり、展可は黎基よりも先に起きたつもりらしい。

 黎基は起きていたが、寝たふりをした。それは、立場から見て気を遣ったつもりだったのだが。


 すると、展可は黎基の方を窺い、それから汲み置きの水桶で布を濡らしているようだった。

 それから――。


 着物の帯を解いた。はらりと着物が肩を滑り落ちていく。黎基は思わず二度見した。

 展可は黎基に背を向け、その上長い髪を下ろしているので、見えるのは腕くらいのものなのだが、肩の傷に巻いた包帯を取り替えている。それとは別に、白い帯状のものを外しているのは、胸に巻いていたさらしだろう。さらしを外し、白い腕を濡らした布で拭いている。


 視線に気づかれてはいけない、と黎基は目を閉じた。

 見てはいけない。そんな卑劣なことはしてはならない。


 そう思う気持ちと、まさか見られているとは気づかないだろうから、見ても構わないだろうという気持ちとがせめぎ合う。――が、辛うじて理性が勝った。それ以上見ることはしなかった。

 ゆっくりと休んだはずが、妙に疲れる目覚めとなってしまった。



 その後、何食わぬ顔でやってきた昭甫だったが、目には好奇心のようなものが浮かんでいて、それが黎基にとっては腹立たしい。しかし、展可の手前、涼しい顔を装うのだった。


「殿下、よくお休みになれましたか?」


 昭甫にしては珍しくにこにこと笑顔を振りまく。


「ああ、とても」


 笑顔で返してやったが、どうせこの男にはすべてお見通しというところだろう。昭甫は一度展可を見遣り、それから面白くなさそうに顔を黎基の方に戻した。


「国境に迫ってまいりました。この先にすいむらがあります。よう群の太守のいるここが、我が国最後の人里でございます。この先は武真国となりますので。このむらで少し休ませてもらい、保存の利く穀類を少々手に入れたいと考えております」

「そうか。しかし、それほど期待はできないな……」


 正直なところ、廃太子の軍に恩を売っても仕方ないと民にさえ思われるのは黎基自身にもわかっている。展可の機転で肉類や野草で嵩増しをしつつ、兵糧は大事に使っている。今後もこの調子で行けばなんとかなるのではないかと思えた。

 けれど、昭甫は言う。


「武真国に入ってからは大っぴらに狩猟をするわけには参りません。鳥も獣も草も、武真国のものでございます。少々は大目に見ても、やりすぎれば反感を買うでしょう。ですから、保存の利く蓄えが要るのです」


 それから昭甫は展可を横目で見遣った。


「鳥獣がたくさん獲れて潤ったとはいえ、一度に獲れる量が多くては消費できない。このままで行くとせっかくの肉が腐る」

「それでは調理して多めに配るしかありませんね」


 展可がそう返すと、昭甫はかぶりを振った。


「いいや、一度食事を増やしてしまうと、今後もそれを期待するようになる。兵には決まった量以上の食事は出すべきではない」


 昭甫が言うことにも一理ある。しかし、せっかく獲れた肉を腐らせるのは勿体ない。


「保存が利くように加工できぬか?」


 黎基が口を挟むと、昭甫はうなずいた。


「ええ、もちろん可能な限りで加工するように指示してあります。それでも限りはあるとのことで、この肉の使い道を考えたのです。無駄にはしません」


 展可もきょとんとしている。

 黎基は黙って昭甫の話の先を待った。


「こちらの誠意を示すため、彗のむらへの手土産とします。なんとか効果的に使いましょう」


 余りものを堂々と『誠意』という辺りがいい性格をしている。しかし、せっかくの食料を無駄にせず、こちらとしても有利にことが運べるのならありがたい。


「そうだな。そうしてくれ」


 黎基がうなずくと、昭甫はまた意地悪く笑った。


「そこでですね、大事になってくるのは我々の交渉術でございます。特に殿下が太守の心をつかみ、この方のためなら惜しくないと思わせるようにお願い致します」


 また難しいことを言う。しかし、展可はそんな昭甫に憤りを隠さなかった。


「殿下はご立派な御方です。殿下がお頼み申し上げれば、誰であろうとも断ろうなどとは思いません」


 ――そう買い被られると、今朝の自分が余計に疚しくなるのだが。


 黎基はそれほど立派な人間ではない。それを自分で知っている。

 知っているからこそ、過信はしない。それだけが強みかもしれなかった。


「まあ、当たり前だとふんぞり返るつもりはないので、丁寧に頼んでみよう」


 それだけ言うと、展可は目を潤ませた。何やらこの娘には過度に感じ入りやすいところがあるように思えた。

 黎基も血筋はともかく、ただの人なのだが――。

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