30◇初仕事

 展可が劉補佐によって黎基のところへ連れていかれると、床几に座っていた黎基はすぐに展可に気づいて口元を綻ばせた。何故、気づいたのかと思ったが、長年目に頼らなくなっているのだ。多分、足音か何かでそれとわかるのだろう。


 黎基のそばには郭将軍もいた。黎基にとって信じられるのは郭将軍と劉補佐の二人だけなのかもしれない。だからこそ、京師みやことは縁のない展可ならばそばに置いてもよいかと、心許せる護衛を増やしたいと考えているのか。


 ――尊い血なのだ。

 親王としてもう少しくらいは大事にされていると思っていた。


 それが、排斥されてここまでやっと生きてきたという。展可が思う以上に過酷な日々を送っていた黎基に、展可ができることはなんだろうか。

 今くらいは持てる力のすべてで仕えたい。


「展可、無理を言ってすまない」


 黎基の方がそんなことを言った。穏やかで、控えめな声だ。


「い、いえ。滅相もございません。私でお役に立てるかどうかはわかりませんが、誠心誠意務めさせて頂きます」


 そう言って拝礼すると、黎基はうん、と言ってうなずいた。どこか嬉しそうに感じられたのは、展可の願望だろうか。

 それから展可は郭将軍に向け、思いきって切り出す。


「あの、もし私が乗れそうな馬がございましたらお貸し頂けませんか? 劉補佐との二人乗りではいざという時に動けませんので」


 すると、郭将軍は眉を跳ね上げた。展可が馬に乗るというのが意外に思えたようだ。


「わかった。用意しよう」

「ありがとうございます」


 黎基はそのやり取りをハラハラしながら聞いているふうだった。


「馬に乗れるのか? しかし、気をつけてな」


 黎基には展可がよほど子供に思えるらしい。随分と心配性だ。けれど、心配してもらえて嬉しいというのが本音である。


「はい。……その、殿下はまだ輿こしにはお乗りになられないのですか?」


 馬では流れ矢に当たったり落馬の可能性がある。それでも、輿をひっくり返された黎基としてはあまり乗りたくないとも考えられる。


「まあ、今のところはな」

「――殿下、それではそろそろ出立致しましょうか」


 郭将軍が声をかけ、黎基は立ち上がった。


「ああ、そうだな」


 すらりとした立ち姿が美しい。この方があのまま何事もなく成長していたら――と過去には戻れないとわかっていても、いつまでも考えてしまう。未練がましいことこの上ない。

 ぼうっと黎基に見惚れていると、劉補佐が展可にピシリと言った。


「おい、殿下が馬にお乗りになる。手をお貸ししろ」

「……はい」


 展可は高鳴る胸の鼓動を落ち着けながら手を差し出した。

 しかし、目が見えないのだ。手を差し出しただけで黎基が展可の手を取れるわけではないとすぐに気づいた。自分から黎基の手に触れる。心臓が、これ以上ないほどに騒いだ。


 指が長くて、思いのほか硬い手だった。

 子供の頃に手を握り合ったことはあるけれど、あの頃とはまるで違う。あの時はずっと手を繋いでいたいと願ったが、もう二度と触れることは叶わないと諦めた。それが、こんな形で叶う。


 色々な感情が入り乱れ、気を引き締めていないと取り乱してしまいそうになる。そんな自分の心を必死で抑えた。


 展可が手を引くと、黎基はどこか照れたように見えた。いつもはこれを劉補佐が行っているのだ。人が変わると照れ臭いものなのだろうか。


 展可は、足元に黎基がつまずくようなものがないか、細心の注意を払いながら進んだ。先に馬の背に乗った郭将軍が待っている。


「ありがとう」


 黎基はいちいち礼を言う。下々の者にまで心を砕いてくれる。

 それはもちろん黎基の人柄によるところなのだが、普段からかしずかれて来なかったからだとも受け取れた。


「いえ、どうぞお気をつけて」


 展可は郭将軍に黎基を預ける。力強い腕が黎基を引き上げ、黎基は郭将軍と相乗りになった。

 郭将軍に言いつけられた兵が、展可に馬を与えてくれる。軍馬だが、やや小振りの黒馬だった。年若く、気性は少々荒そうに見えたが、きっと大丈夫だろう。


「ありがとうございます。お借りします」


 そう断ると、展可はあぶみを踏んで馬に飛び乗った。馬は新たな乗り手を不満げに、振り落としたそうに首を振ったが、展可は馬の走りに自分の調子を合わせてやる。

 跳ねるように駆けるのなら腰を浮かせ、速く走るのなら身を低くする。馬は次第に、展可を異物とせず、人馬は馴染んで快く疾走するのだ。


 劉補佐だったら振り落とされたことだろう。振り返ると、劉補佐を乗せた馬ははるか遠くをゆったりと歩いている。


 展可は、視界には必ず黎基が入るようにした。黎基は振り向かないが、その身が無事であることだけを考えて見守るのだ。



     ◆



 そうして、その晩。

 展可は黎基のための天幕にいた。そこに展可や劉補佐のための食事も用意されたのだ。


「殿下は私たちと同じものを召し上がられるのですか?」


 銀食器に入れられているが、中身は同じだ。雑穀や野鳥の肉、野草の類である。

 床几に腰かけている黎基は穏やかにうなずいた。


「私が一番疲れていないから、これでいいんだ」

「もうちょっといいものを召し上がってくださらないと、毒見のし甲斐もございませんが」


 正面に座っていた劉補佐が、銀食器から肉を匙ですくって口に含む。毒を混ぜられる可能性もあるのかとゾッとしたが、劉補佐は慣れているのか平然としていた。


「私も毒見をすべきなのでしょうか?」


 展可が恐る恐る訊ねると、劉補佐がそれを鼻で笑った。


「いや、それはいい。兵と同じものを出されているからな。ここに混ぜ込むのは難しいだろう。念のために毒見をしているが、行軍中は毒を盛られる可能性は低いと見ている」

「展可、先に食べていていい」


 黎基はそう言ってくれるが、そういうわけにはいかない。


「いえ、私は後で――」

「片づかないから早く食え」


 劉補佐が面倒くさそうに言った。この人は、黎基を前にしてもこの調子だ。むしろ、こうだからこそ黎基は安心するのだろうか。おもねる人間の方が油断ならないとばかりに。


「はぁ……」


 黎基を気にしながら、展可は黙々と食べた。黎基は椀と匙とを手渡されると、そこからは自然に一人で食べ始めた。口を開けたところに匙を運んでやるようなことまではしなくともいいらしい。

 三人がすっかり食べ終えると、劉補佐は食器をまとめて持ち、立ち上がった。


「では、あとはごゆっくりお休みください」


 展可もとっさに立ち上がる。すると、劉補佐が目で動きを封じた。


「お前はここで殿下がお休みになる介助をしろ。それから、殿下がお休みになってもここを離れぬようにな」

「あ、あの、ひと晩ここにいろということでしょうか?」

「そうだな。さすがに毎日とは言わん。明日は俺がつくから、一日おきにな」


 寝ずの番をしていろということではないが、ここで休めと言う。展可はこれでもうら若い乙女なのだが、それを知らない人々にとって、展可は少年である。ここで動揺したのではおかしい。

 展可は精一杯の平常心で答えた。


「畏まりました」


 黎基の方が劉補佐に顔を向け、何か言いたげにしていたが、結局何も言わなかった。

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