29◇側に

 展可が撒いた噂は上手い具合に皆をその気にさせた。展可自身は肩の傷があり、思うように弾弓を扱えなかったが、もう少し傷が癒えたら狙ったところに飛ばせるようになるだろう。

 そうしたら、もっと黎基の役に立てる。そう考えて張りきった。


 この時、展可は策瑛たちと共に夕食のあつものを受け取るべく列に並んでいた。策瑛は、何か言いにくそうにささやく。


「なあ、展可。お前、しばらく殿下の側近の劉補佐と一緒に馬に乗っていただろ?」

「うん、まあ……」


 馬術が下手で苛々したとはさすがに言えない。

 策瑛は何を言いたいのだろう。展可は続きを待った。


「劉補佐ってどんな方だった?」


 どんなと言われると、皮肉屋で口が悪く、忠誠心も怪しい。どうしよう、どこを褒めよう、と展可が困っていると、策瑛が苦笑した。


「意地悪なこと言われなかったか?」

「え、ええと……」


 とっさに何も言えなかった。そんな展可の様子で策瑛は察したらしい。


「いや、もしかすると古い知り合いかもしれなくて。養子に行った先の名までは知らないが、そうじゃないかなと」

「そうなの? 劉補佐と知り合いなんだ?」


 策瑛は確か、わりと田舎の出身である。そこで伸び伸びと育ったような策瑛と神経質な劉補佐が繋がらない。


「まあ、昔のことだから、向こうは覚えてないかもしれないな」


 そうしていると、急に声をかけられた。


「おい」


 短いながらに偉ぶった声だ。

 振り向くと、いつかの青年がいた。模擬戦で展可が打ち負かした、どこかの三男坊だったと思う。相変わらず尊大に展可を見下ろしている。


「お前、上手く殿下に取り入ったそうじゃないか」


 確か、名を瓶董へいとうと言った。こういう男は相手にしない方がいいと思い、展可は返事をしなかった。

 それが気に食わなかったらしく、瓶董は顔を歪めた。


「ハッ、殿下は男色家だって聞くしな。女みたいな顔しててよかったなぁ」


 プツン、と展可の堪忍袋の緒は瞬時に切れた。

 自分のことはいい。けれど、黎基のことを馬鹿にするのは赦せない。


「お前ごときが軽々しく殿下のことを口にするな。この愚物が」


 普段はそれほど怒りっぽいわけでもない展可が、押し殺した声で暴言を吐いたので、策瑛がぎょっとしていた。


「なんだと、このっ!」


 当然、顔を真っ赤にして展可につかみかかってきた瓶董だったが、策瑛が展可を背に庇った。


「私闘は厳禁だ。挑発したのはあんたなんだから、あんたも悪い。ここはこれまでにしてくれ」


 すると、瓶董は策瑛を上から下まで睨めつけてから、地面に唾を吐きかけて去った。策瑛はほっとしたのかもしれないが、展可は物足りない。正直に言うと、殴ってやりたかった。あんなやつには負けない。


「展可、あんな挑発に乗るな。あれはお前の立場が悪くなるように、問題を起こさせたがっているだけなんだ。お前ならそれくらいわかるだろ?」


 毛を逆立てた猫を宥めるような声だ。

 策瑛に八つ当たりしてはいけない。展可はなんとか気持ちを落ち着ける。


「わかるけど、我慢ならないこともある」


 深く息を吸っていると、策瑛はそんな展可の頭に手を載せた。


「人それぞれ、譲れないものはあるんだろう。でも、ああいうやつは放っておけば自滅するから、付き合わなくていい」

「うん……」


 策瑛はどこか兄を思い出させる。不思議な安心感があった。



 その翌朝になると、もういいと断ったにも関わらず、劉補佐が馬を引いて展可のところにやってきた。


「あの、もう平気です」

「それはよかったな」


 よかったと言ってくれるわりには棒読みである。もうこの男と馬に乗りたくないのだが。

 劉補佐は口の端を少し持ち上げた。


「お前の行いについて――まあ、兵糧の件だが、殿下はいたくお喜びだ」

「えっ」


 黎基が喜んでくれた。それだけで展可は何よりも嬉しい。他には何も要らない。黎基が喜んでくれたらそれだけでいい。

 そんな思いが目に見えて表れていたのかもしれない。劉補佐はにやりと笑う。


「それでだな、お前を殿下の側仕えに推奨しておいた」

「そ、そば……?」

「殿下は御目が不自由なので、何をするにも介助が要る。お前がその手伝いをするということだ」


 それは、黎基のそば近くにいられるということ。展可は天にも昇るような心地がした。黎基の世話を焼けるなんて、信じられないくらいに幸せだと。しかし――。


 そばにいればいるほど、展可は自分が『愽展可』ではなく、黎基の目から光を奪った男の娘であることを知られてしまう危険が増すのだ。黎基の心証が悪くない今、だからこそ、ここから黎基に唾棄されるのは嫌だ。


 役に立つ、そう思ってもらえたのなら、そのまま別れたい。

 近づきすぎるのは危険だ。

 少し離れたところから黎基を護っていきたい。それでいいはずなのだ。


「劉補佐、お気持ちはありがたく存じます。けれど、私は田舎で粗野に育ったのです。そのような大役はとてもお受けできません」


 本当は、そばにいたい。会えなかった日々を埋めるほど近くで声を聞いていたい。

 しかし、それは望んではいけないことだ。喜びも、すべて求めてはいけない。ただ黎基のためだけにここにいるはずなのだから。


 劉補佐はふぅ、と嘆息した。かと思うと、何やら含みのある目を展可に向けてくる。


「……殿下はな、これまで気を許せる近侍に恵まれておらず、孤独な方なのだ」

「う……」


 そのひと言だけで展可が涙ぐんだのを、劉補佐が気づかなかったわけではないだろう。

 それでも、淡々と続けた。


「まあ、それはいいとしても、これからは戦になる。そうすると、殿下の周りに御身を護れる近侍が必要になってくるのはわかるな? ただ茶を淹れるためにそばに侍れと言っているわけではない」

「それは、まあ……」


 いくら後方に控えていようとも、危険がまったくないということはない。輿で運ばれていてさえ狼に襲われるという不運が重なったくらいなのだから。


 そんな時、身を挺して黎基を護る、そんな人材がほしいというのだろう。展可も、いざとなればどんなことをしても黎基を護りたいと思う。必ず帰るという兄との約束は違えてしまうけれど、それでも。


 展可の心がグラグラと揺れた。

 そうして、劉補佐は声を潜めて言ったのだった。


「あれでも皇族。廃太子とはいえ、現皇太子殿下も幼年だ。いざとなればまだ利用価値はあるのでな、まあ、ある筋の方々からしたら厄介な存在だ。どさくさに紛れて消されんとも限らんというのが本当のところだ」

「そんなっ」


 思わず声が高くなった展可は、慌てて自分の口を塞いだ。それでも、心音だけがバクバクとうるさく鳴り響いている。

 この上、まだ黎基から何かを奪おうとする。生きている、ただそれだけのことを責めるようにして。


 劉補佐は、クッと小さく失笑した。


「それでも断るか? いや、だからこそ断りたいか」


 お前も黎基の命よりも己の命が惜しいだろうと。

 もちろん、進んで死にたいとは思わない。生きて帰りたい。

 けれどそれは、黎基が死んでも展可だけは生きて帰りたいということではないのだ。


 展可はキッと劉補佐を睨んだ。そして、挑むようにして告げた。


「いいえ、そういうことでしたらお受け致します。この身を盾にしてでもお護りしたく存じます」


 すると、劉補佐は満足げに笑った。この答えを待っていたのだろう。


「お前ならそう言ってくれるだろうと思った」


 こんなことを言われてはとても断れない。


 黎基は目が見えていないのだから、展可の顔から面影を見つけることはない。

 そうそう、展可の正体を知られることはないはずだと、展可は自分に言い聞かせた。

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