28◆世話役

 黎基はその晩、天幕の中で昭甫から兵糧の一部が砂袋であったという報告を受けた。傍らには雷絃もいる。

 雷絃は深々と嘆息した。彼が取り乱すようなら誰が取り乱してもおかしくはないのだが、さすがに落ち着いたものだった。


「兵糧は命綱です。細い命綱で他国へ赴くとあっては、士気が下がるどころか逃亡兵が後を絶たないことでしょう。問題は、これをどうすべきかですが……」


 黎基はこの時、あの秦貴妃を始めとする一族ががほくそ笑んでいる様子が目に浮かぶようだった。奥歯が砕けるほど歯噛みしたい気持ちを抑え、口を開く。


「本来であれば京師みやこに知らせ、兵糧の補充を申し出るところだが、それをすれば誰かの首が飛ぶ。やつらが誰かに罪を擦りつけてことを収めるとわかっていて、下手に動けない。――私がそこまで考えることを見越して、こうした手を使ってきているとしたら癪だが」


 見知らぬ文官の首と胴が離れたとしても、それで抱える兵士たちの命脈が保たれるのならと、それを選択するのは間違いではない。ただ、その文官の家族、親類、部下、多くの者が連座させられる。

 その文官自身の罪ではなく、陰謀に巻き込まれた末にだ。

 あの、蔡桂成のように――。


 秦一族にとっては、まつろわぬ邪魔な臣を消す機会に恵まれるだけなのだ。むしろ、黎基からその知らせが来るのを待っていることだろう。

 それを吞み込み、黎基が苦しむとして、それも秦一族にしてみれば愉悦の種でしかない。


 まともな兵も与えず、兵糧も削り、武真国へ赴いて恥をさらせばいいと言いたいのだ。あの女狐たちの思い通りになどなってたまるかという思いはあれど、すぐにどうすべきかは考えられなかった。

 こうした時、頼りになるのは腹心の二人である。昭甫も表情から焦りは見えない。


「まあ、武真国へ入る前に発覚したのは幸いです。途中のむらで少々の食料は出してもらうしかありませんが、快く出させるためにはやはり殿下がひと芝居打って、気持ちよく出してもらわねばなりません。高貴な血を持ちながらも不遇で、それでいて下々の者にさえ心優しい親王殿下――という印象を植えつけられるようにお振舞ください」

「な、なるべく……」


 いかにも普段がそうでないかのような言い方である。

 しかし、実際のところ、むらから提供してもらうよりないのだ。それ以外にも、今後のことを思えば心証をよくしておくに越したことはない。

 この時、昭甫はうぅん、と小さく唸った。


「この件ですが、私と同じ馬に乗っていた愽展可も聞いてしまったのです。当然ながら、口止めはしましたが」


 黎基はふと、展可の瑞々しい面立ちを思い出す。黎基を狼から庇ってくれた勇敢な少女だ。

 彼女なら、軍に余計な混乱を招くようなことを吹聴しないと思える。

 黎基が声をかけた時に感極まって泣いていた姿を思い起こすと、ほんのりと胸の奥があたたかくなる。


 思えば、この男は目が見えないから、声さえ取り繕っておけばいいとばかりに冷笑している相手も多くいたのだ。侮蔑に傷つきはしないが、慣れていた。だから、展可のあの涙が印象深い。


「展可なら他言はしないだろう」


 己の直感を信じてもいいのなら。

 展可についてそれほど多くを知っているわけではないくせに、あの目が裏切りとは無縁に澄んで見えたのだ。

 雷絃もうなずいてくれる。昭甫は、軽く首を傾げた。


「漏らさないとは思いますが、何やら張りきって食料を集めそうな勢いでした。とは言っても一人でやることですから、あてにはならないと思いますね」


 それを聞くと、雷絃はこんな時なのに笑った。逞しい肩が小さく揺れる。


「ああ、あの子は殿下のお役に立ちたいんだろう」


 展可の頑張りを雷絃なりに微笑ましく思っているようだ。


「そうですね。多分、そうじゃないかと」


 と、昭甫までもが言った。これは珍しい。黎基も驚いた。


 この血が尊いものだから、無条件に慕い、仕えてくれるのかもしれない。それは黎基自身に対する思慕とは違う。相応しくない行いをして幻滅されればそれまでだ。


 わかってはいるが、展可の献身が嬉しくはある。

 盲目の廃太子として軽く見られがちだからこそ、尚更だった。



     ◆



 黎基はその翌日、妙な光景を目にした。

 ――表向き、としてはいけないのだが、本当は見える目の動きを隠すために巻いた紗の布地の奥から見たのだ。


 民兵たちが朝から弓術の鍛錬をしていた。それも、空に向けて。

 ただし、矢をつがえていない。弓で何か、つぶてのようなものを飛ばしている。


「なんだ、あれは?」


 雷絃が兵の一人を捕まえて問う。すると、兵士も首を傾げた。


「自発的に始めたことらしいのですが、何やら民兵の中に弾弓の達人がいるらしく、その者に習っているのだそうです」

「そうなのか? まあ、戦の役に立つから励むのはよいが。……では、あれはなんだ?」


 下を向いてうろついている者も多い。あれは一体何を探しているのだろうか。

 時折、しゃがんでは草を抜いているように見えた。


「なんでしょう? 薬草でも集めているのかもしれません。今後、怪我もするでしょうし」


 一人二人がそうした行動に出るのは不思議なことではない。しかし、流行るにしても急に思えた。黎基には庶民の行動は読めないということだろうか。



 そうして、二日もすると、料理番のもとには野鳥と食用の野草とが山と積まれることになった。まるで、兵糧の不足を補うようにして――。


 黎基の食膳の毒見をする昭甫は、粂飯と甘辛く煮た鳥肉と野草を前にくつくつと笑い出した。


「どうした、昭甫?」

「兵糧が足りないというのに、肉が出るわけがわかりましたよ」


 匙で肉を突くと、昭甫はそれを口に入れてから呑み下した。


「あいつの――愽展可のせいです」

「展可の?」

「ええ。あいつ、殿下が庶民の食事に興味を持たれていて、料理番が野鳥や野草を求めていると噂を撒いたらしいです。そうしたら皆、殿下に気に入られようと競い合って食材を集め出したと自分で言っていました」


 黎基一人で食べる量ではないが、皆、自分の獲った獲物を選んでほしいと、より立派な野鳥を仕留められるまで続けた結果なのだろう。狩りのできない者が野草を摘んでいたわけだ。

 これなら兵糧のことは覚られず、皆をその気にさせて食材を集められる。――料理番は苦労しているかもしれないが。


「面白い手を使うな」


 思わず黎基はつぶやいた。誰にも強要せず、自発的に動くように仕向けたのだ。なかなかの策士である。


「それから、もう傷は平気だから馬に乗せてくれなくともいいと言うんですが、どうしますか?」


 すっかり毒見を終え、昭甫は膳を黎基に渡す。黎基は少し考えた。


「どう、とは……?」


 すると、にやにやと嫌な笑い方をしながら昭甫は言った。


「本来でしたら殿下には、身の回りのお世話をする者が必要です。殿下は目のことがありますから、寄せつける人間は極力減らしてきましたが、あの者をおそばに置いてみますか?」

「え……と、展可をか?」


 ギクリとした。その動揺を覚られないようにと姿勢を正した黎基に、昭甫は少し目を細めた。


「『お世話』の意味をはき違えてはおりませんか? あれはなかなか役に立つ人材のようなので、そばに置いておけば損はないということです。この前のように、いざとなれば身を挺して殿下をお護りすることでしょう」


 意味をはき違えるようなことを最初に言ったのは誰だと言いたいが、堪えた。


「私も男なので、本来なら護ってやらねばならないような女子供に庇われるのはもう嫌だ」


 か細い、柔らかな肌を傷つけて庇われても嬉しくない。こちらの方が苦しくなる。

 それなのに、昭甫は言った。


「それならば余計に、おそばに置いてはいかがですか? あれは女です。そして、民兵のほとんどが男。今のところ隠しているようですが、それも時間の問題でしょう。殿下のおそばに置いた方が安心ではありませんか?」


 昭甫なりに展可のことを気に入ったのかもしれない。この男にしては珍しいことだ。


「女が数名いるのなら、女だけを集めて分けておいた方がいいのかもしれないな」


 展可が仲良くしている娘もいた。展可だけを引き抜くと、その娘が危うくならないか、そこも心配だったのだ。


「ええ、眠る時、天幕のひとつは女たち専用にしておいた方がいいでしょう。ただし、展可のように隠して従軍している者も一定数いると思われます。その者はその中に入ることができません」


 展可のように隠している場合、もし誰か一人だけに知られてしまえば、脅されたり人目のないところへ連れ込まれたりする危険があるかもしれない。


「そもそもが、女まで徴兵するからいけない……」

「そうですね。秦貴妃にそう言ってやってください」


 黎基は、潜めた声でつぶやく。


「展可をそばに置く。ただし、目のことは知られぬようにせねばならないから、昭甫もそのつもりで振る舞ってくれ」

「御意のままに」


 恭しくそう答えた。

 展可がいることで黎基が息抜きできる時は限られてしまう。それでも、そばに置いて損はないと昭甫は言うのだ。

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