26◇兵糧

 劉補佐との相乗りは、展可にとっては楽しいものではなかった。

 やはり、下手なのだ。展可の方が上手く馬を操れると思うから、もどかしくて仕方がない。


 馬がだらけている。乗り手を侮っている。いつでも振り落とせるから、もうしばらくは乗せてやってもいい、くらいの情けをかけられているような気になった。


 多分、黎基も郭将軍も、こんなに下手だと知らないのではないだろうか。知っていたら、怪我人を託したりはしない。郭将軍の馬はすでに遠かった。


 何度か休憩に立ち止まっても、しばらく馬を歩かせると、どうしても展可たちは遅れて騎馬兵の後尾になるのだ。手綱をもぎ取りたい衝動を抑えるのに必死な展可である。


 それに、この男と会話が弾むこともなかった。口を開くのも億劫だから話しかけるなといったふうである。郭将軍のような人柄であれば、この十年の黎基のことを聞きたかったけれど、劉補佐は無駄話などしてくれそうもない。


 これなら策瑛たちと一緒に歩いていた方がましだ。思わずため息をつきたくなったが、それも堪えた。



 徐々に日が暮れていく。馬に揺られているだけで、たいして体を動かしてはいないが、空腹感を覚えた。何もせずとも腹は減る。これは姜の里に住むようになって貧乏をしてみてからしみじみと思ったことだ。

 自分は役に立たない子供なのに、どうしても腹は減って、食べずにはいられなかった。それが申し訳なくて悲しかったのだ。


 背を向けている劉補佐の腹もグゥ、と鳴った。取り澄ましていても腹は減るらしい。少し可笑しかったが、笑ってはいけない。当たり前の、そんな些細なことに展可は勝手に僅かな親しみを感じた。


 そんな時、展可たちの後方で兵糧を運ぶ糧車を護っていた兵が近づいてきた。糧車を引いているのは荷馬で、そこに人は乗らない。周囲には護衛の歩兵、料理番が続いている。今、近づいてきたのはまとめ役の騎馬兵だ。


「劉補佐」


 あまりに危なっかしいので声をかけてきたのだろうかと、展可は苦々しく思った。しかし、振り向くと騎馬兵は困惑した目をしていた。

 劉補佐は並走する騎馬兵に不機嫌な顔をしてみせる。


「なんだ?」


 もしかして、劉補佐にも馬術が不得手だという自覚があるのではないだろうか。

 しかし、この兵士が言いたいのはそんなことではなかった。


「お耳に入れておきたきことがございます」


 この時、劉補佐は展可を睨んだ。お前は聞くなと言いたいらしい。展可は慌てて両手で耳を塞いだが、肩を負傷しているのだ。腕を上げたら痛かった。そのせいで力が入らない。盗み聞きするつもりではなかったが、聞こえた。


「話せ」

「はっ。……兵糧のことなのですが」

「出かけに点検はしたはずだが、かびが生えた米でも混ざっていたか?」

「そ、それが……」


 ボソボソボソ、と兵士は小声で話す。あまりに小さく、劉補佐にも聞こえなかったようだ。


「聞こえん。何が言いたい?」

「ひょ、兵糧の一部が砂袋にすり替えられておりまして」

「…………」


 劉補佐が絶句していた。

 兵糧は何にも代えがたいものである。兵は人なのだから、食べるものがなければ戦どころではなくなってしまう。米ならば食べきれなくとも売れば金になるから、誰でもほしがったとは思うが、兵糧を盗むとなるとそう簡単なことではない。

 一体いつ、誰がすり替えることができたというのだろう。

 展可がハラハラしていると、劉補佐は目を細めた。


「このことを知っているのは、誰だ?」

「まだほとんどの者が知りません。下の方になっていた袋なので、見つけた料理番が二人だけです」

「一部というのはどの程度だ? 全部調べたのか?」

「まだそこまでは……。手で触って確認したところ、二割くらいではないかと料理番が言っていましたが」

「二割か……。国境を抜け、武真国に入って、補充もままならないところで発覚していたら大変なことになっていたな。早期に気づけたのは僥倖だ。褒めてやる」

「はっ、料理番にもそう伝えておきます」


 意外というべきなのか、さすがというべきなのか、劉補佐は落ち着いていた。戦ともなれば、色々な事態を想定しているようだ。


「今日はもうどうにもならん。変わりなく食事を作れ。まずは策を練り、追って伝える。とにかく、このことは隠せ。砂袋を積んだ糧車は、他と同じく兵糧が詰まっているようにして大事に扱え。誰も近づけるな」

「畏まりました」


 騎馬兵は頭を下げると戻っていった。展可は話をすっかり聞いてしまったのだが、それは劉補佐も気づいていたようだ。


「おい」

「は、はい」

「他言無用だ」

「誓って誰にも言いません」


 このことがもし漏れたら、士気に関わる。脱走兵も相当な数に上るだろう。ただでさえ少ない兵がこれ以上減っては困る。

 こんな時、どうすればいいのだろうか。食事の回数や量を減らしたのでは、兵の精神状態が悪くなり、軍の中で諍いが絶えなくなりそうだ。


「……幸い、まだここは国内だ。近隣の邑里むらざとから募ることもできるが、それで足りることはないだろうな。募ると言ってもやりすぎれば略奪と変わりない。殿下の評判を落とす」


 ボソ、と劉補佐がつぶやいた。


「失った兵糧を探さないのですか?」


 展可はそこに驚いた。劉補佐は、失った兵糧も盗んだ者も捜そうとしていない。


「大っぴらに探せば兵たちに知られることになる。それ以前に、兵糧は出てこないだろう。探すだけ無駄だ。……さて、どう確保するか」


 兵糧は出てこないと劉補佐は言う。

 それは、随分と前にすり替えられていたのだと考えているからではないだろうか。出立の時に調べたのだとして、それですり替えられたというのなら、一人二人が思いつきでやったことではなさそうだ。


「このことは殿下にご報告なさるのですか?」


 いきなり黎基の耳に入れていいものかわからなかったから、珍しく黎基と離れている劉補佐を捕まえて話したのだろう。黎基には、ただでさえ初めての戦なのだ。不安があるところにこんな事件が起こったと知ったら、さらなる苦痛にしかならない。その心中を思うと、展可も苦しくなった。

 しかし、劉補佐はまたしてもあっさりと言った。


「当然だ。まあ、常に何か起こるだろうというお心構えはある。そう動じることはないだろう」

「それは……」


 なんの問題もなく進めるとは思っていなかったというような口ぶりだ。黎基も覚悟の上だと。


「殿下は幼少期から冷遇されている。だから、少々の嫌がらせには慣れておられる」


 それは、目の光を失ったからだろう。見えない相手には上辺でさ取り繕う必要もないとばかりに。

 けれど失明して、黎基自身が最も苦しんだはずなのだ。それを蔑み、邪険にするようなことがあってはならない。それなのに、黎基はつらい毎日を送っていたのか。


 多少なりとも関わってしまった身として、展可は胸が張り裂けそうだった。


「……っ」


 嗚咽を噛み殺していると、急に劉補佐が振り返った。涙を隠しきれなかった展可を見て、劉補佐は目を瞬かせた。


「何を泣いている? いきなり鬱陶しい」


 鬱陶しいと。残念ながら怒れる立場にないのだが、ひどい人である。

 展可は怪我のない方の肩口で涙を拭った。


「すみません。ただでさえ御目のことがあって、ご心痛の絶えない殿下がそのような目に遭われていたとお聞きして、その御心中を思うと……」

「だからといって、関りのないお前が泣くものでもないだろう?」


 関りはあるが、それは言えない。展可は無言で涙を拭う。


「皇族は尊い。神にも等しく崇め奉れとでも教わって生きてきたのか? 今時、爺さん婆さんでもそんなことは言わないぞ」

「劉補佐はいつもこうなのですか? まさか殿下の御前でも?」


 あまりの口の悪さに驚いて、つい言ってしまった。しかし、劉補佐は怒るでもなく意地悪く笑う。


「お前に対するよりは少々丁寧だ」


 少々ではいけない気がするが。

 ――とにかく、今、考えなくてはならないのは兵糧のことだ。


 兵糧が足りないからといって、今から引き返せるわけではない。兵糧がないまま武真国入りしていたら、援軍とはいえ迷惑にしかならない。今後の国家間に亀裂が生じそうな気がする。

 穿ちすぎかもしれないが、それを狙った者がいたとしたら怖い。


「……兵糧のことはどうなさるおつもりですか?」


 お前が口を挟むことではないと言われるかと思ったが、はっきりとした答えは得られない。


「さて、どうるするかな」


 劉補佐は焦った様子ではない。何か手があるのか、展可の手前ゆったりと構えて見せているだけか、どちらだろう。

 どうしたら兵糧を増やせるか、展可も考えを巡らせる。こんな時、兄ならどうしただろうか。


 兄ならば、草木も食料と見なした気がする。通りかかるところに毒がない植物があればきっと食べた。

 姜の里に着いてからは名も知らないような草を食べたことも多々ある。兄妹二人になってからは特にだ。


「その辺りに生えている草木も食べられます」

「兵が食あたりになっては意味がない」

「貧しい暮らしをしている庶民は、貴人から見たら草のようなものでも食べているんです。どれが食べられるか、それくらいわかります」


 展可も兄や母と一緒に草を摘んでいた。見分けはつく。

 劉補佐は驚いたように目を瞬かせた。


「美味いのか?」

「ちゃんと下処理すればですね」


 ふぅん、と劉補佐はつぶやいた。余計なことを言うなとは言わない。だから展可は続けた。


「あとは鳥獣を狩るしか……」

「矢で射るのか? 矢はなるべく温存しておかないと戦の時に困る」


 この時、ふと鶴翼のことを思い出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る