25◇馬上にて

 展可はこのまま郭将軍に連れられていくところだったが、天幕の前にいた袁蓮が展可の襌衣たんいを手渡してくれた。


「袁蓮、私はしばらく騎馬隊と共に行くことになった」

「そうなの? 着替えてからにしたら?」


 袁蓮が直してくれたのか、狼に噛まれた肩のところが綺麗に繕われていた。


「直してくれてありがとう。器用だね」

「あー、うん。だってあたし、淑女だもの」


 なんとなく突っ込みたい気もしたが、やめておいた。

 この時、郭将軍を見遣ると、郭将軍はうなずいた。


「それくらいなら待つぞ」

「ありがとうございます」


 この襌衣は鶴翼のだという。体格がそれほど変わらないので助かった。

 展可は天幕に戻ると、傷を庇いながら手早く着替える。上だけなので、それほど手間はかからない。肩は痛いが、帯くらいは締められる。


 鶴翼の襌衣を軽く畳み、それを手に持って出ると、郭将軍と策瑛が話していた。展可を連れていくという旨の話だろう。


「――承知致しました」

「うむ、後のことは頼む」

「はっ」


 袁蓮が気を利かせて鶴翼の襌衣を受け取ってくれた。鶴翼は見当たらなかった。またどこかでしゃがんでいるのかもしれない。次に会った時に礼を言おう。


「策瑛、運んでくれてありがとう」


 策瑛に礼を言うと、策瑛は展可をじっと見て、それから表情を和らげた。


「傷は痛むか?」

「少し。でも、これくらいならすぐに治るよ」

「殿下をお護りした名誉の負傷だ。堂々としていろ」

「ありがとう」


 優しいことを言ってくれたが、本来であれば勝手に動いた展可が悪いのだ。策瑛には申し訳ないとも思う。


 

 兵たちの間を通り抜けるようにして郭将軍の半歩後ろを歩いていくと、郭将軍が前を向いたままで言った。


「あのようなことがあった後だ。殿下も当分は輿をお使いにならぬと仰っている。私の馬で殿下をお運びする。おぬしは劉補佐が操る馬に乗せるとのことだが」


 劉昭甫。

 黎基の目となって常にそばに控えている文官だ。馬に乗るくらいのことはできるのだろうが、民兵の展可が同乗する相手としては意外過ぎる。


「それは……そこまで甘えるわけには参りません。私は一人でも馬を操れます」

「ほぅ、馬に乗れるのか。しかし、それは腕が使えたらの話だろう? 落馬させたのでは意味がない」

「片手でもどうにかします。恐れ多くて、殿下の腹心である御方の世話になどなれません」


 しかし、郭将軍は呵々と笑った。


「それで納得されぬのが殿下だ。諦めろ」

「そんな……」


 劉補佐のことはよく知らない。細身で癖のない顔立ちをした男だという、見た目の情報しかないのだ。

 どこか疑り深そうで、展可がぼろを出さないとも限らない。


 展可が困惑していると、気がついた時には黎基と劉補佐がいたのだ。劉補佐の肩に手を置き、黎基は立っている。

 黎基は見えないけれど、音や声で展可に気づけるのだろう。目に紗の布を巻いた顔を展可に向けた。口元が綻ぶ。


「展可、傷の具合はどうだ? 痛むか?」


 気安く名を呼ぶ。一兵の名を覚えている。

 そうしたところに昔の面影を見て、展可は不意に泣きたくなった。自然と体がひれ伏し、その場にひざまずく。


「この程度の傷はすぐに治ります。どうか、お気遣いなく……」


 そうしていると、劉補佐が口を開いた。


「では、雷絃殿、殿下をお頼みします」

「うむ」


 郭将軍の腕に黎基の手を移し、劉補佐は癇性な足取りで展可の前に来た。


「愽展可、立て」

「はっ」


 言われるがままに立ち上がる。劉補佐の目は冷ややかで、不本意であるのが見て取れた。黎基が言い出したので渋々従うしかないのだろう。


「行くぞ」

「はっ」


 無駄なことは言わない方がいいと思った。

 黎基の気持ちはありがたいが、これなら歩いた方が精神的には楽だ。劉補佐といると無駄に疲れそうな気がする。

 しかし、そんなことは言えない。


 劉補佐に続いていくと、用意された馬がいた。軍馬なので体が大きく、それなりに気も強いようだ。武人が操る馬だから、細身の劉補佐と展可の二人が乗ったとしても潰れたりはしないだろう。ただ――馬の方からしてみれば、文官や子供は自分の背に相応しくないと感じたのかもしれない。鼻で笑われたように見えた。


「……押さえていろ」


 劉補佐はそう言うと、台を借りて馬上に上がった。馬は体を震わせたが、兵たちが手綱をつかんでいるので振り落とされることはない。


「愽展可、乗れ」

「前か後ろか、どちらに?」

「後ろだ」

「はっ」


 展可はあぶみに足をかけると、軽やかに飛び乗った。馬の背の感覚が懐かしい。

 しかし、劉補佐にしがみつくわけにもいかず、鞍の縁をつかんでおくことにした。馬を走らせるのではなく、歩かせるだけのようだから平気だろう。大きな馬なので乗っていて安定感はある。



 そうして、出立の号令がかかり、続々と兵が行軍してゆく。

 山は下ったが、まだ緩い傾斜のある土地である。たまにしか使われない道だということが、伸びた草からもわかる。草も踏めば滑るのだ。急いでは危ない。


 郭将軍が黎基を前に乗せたのは、後ろでは矢でも飛んできた時に庇えないからだろう。輿はしばらく修理が必要で、休憩のたびに手を入れているが、進軍している最中は直せない。直してから追い上げるのでは追いつけないので、このまま運び、少しずつ直すのだそうだ。


 しかし、馬上では黎基を庇う囲いが少ない。飛び道具もだが、兵の中に不穏な動きをする者がいた場合、万が一ということがある。展可は劉補佐の背から前を行く黎基と郭将軍ばかりを眺めていた。

 それを劉補佐は後ろを振り向きもせずに察知したらしく、抑えた声で言った。


「そんなにも殿下のことが気になるのか? あまり見つめると雷絃殿の背に穴が空くぞ」


 軽口のようでいて、笑っていない。冗談ではなく皮肉らしかった。

 どうやら劉補佐は思った以上に展可のことが気に入らないらしい。


「身を挺して殿下をお救いしたことは褒めてやる。しかし、取り入るつもりならやめておけ。命がいくつあっても足らんぞ」


 馬の背に揺られながら、展可はどう答えるべきかと考えた。

 そんなつもりはないと言えば信じるだろうか。信じてくれない気がする。


 展可は栄達を望んでいるわけではないのだ。ただ、黎基に生きていてほしいだけだ。

 この気持ちを、黎基の最もそばにいるこの男ならわかってくれるのではないのか。


「……劉補佐も殿下の危機には身を投げ出すのではないのですか?」


 すると、劉補佐は正面を見据えたままで淡々と答えた。


「いや? そういう暑っ苦しいことはしない。俺が死ぬような状況であれば、庇ったところで殿下も助からんだろう」


 耳を疑うようなことを言われた。郭将軍は偉ぶらず立派な人であったけれど、こちらは想像していたのと随分違う。忠誠心が希薄なことこの上ない。


 あんなにも黎基のそばにいられる羨ましい立場のくせに、どうしてそう冷淡なことが言えるのだ。

 展可の中で沸々と怒りが湧いていた。馬の背から突き飛ばしてやりたいのをグッと堪える。


 ――それにしても、この男は馬を操るのが下手だ。もどかしい。

 この冷淡さが馬にもわかるのではないだろうか。嫌そうに歩いている。

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