20◆罰と償い

 幼かった日。

 母の療養にと出かけた、汎群はんぐん天河てんが離宮。

 あの地が惨劇の舞台となった時、黎基は幼すぎてどうすることもできなかった。


 汎群のむらから連れてこられたさい桂成けいせいという医者は、穏やかで心優しかった。その長男も落ち着いていて利発、娘は活発で素直。子供たちも好ましかった。

 しかし、その蔡家を黎基は壊してしまったのだ。自らの命を長らえるために。


「……明日、私が殿下にお出しする薬を絶対に飲み下されませんように」


 桂成は、黎基の風邪の診察をしながら、ほんの短い隙を見つけてそれを伝えてくれたのだった。どうして、と問い返してはいけないと、黎基はすぐに覚った。

 周りの目がある。小声で話しているが、黎基が戸惑った顔をすれば何事かと思って近づいてくるだろう。


 黎基は微笑んで話を聞いた。これで他愛のない話をしているように見えるだろう。

 己は常に命の危険とは隣り合わせで生きているのだと知っていた。こののどかな地でもそれはついて回るのだ。


「しかし、それでは蔡先生が危うくなる」


 黎基がすぐに察して笑みを浮かべていたから、桂成もそっと微笑んだ。


「殿下のお命には代えられません。私は覚悟を決めております。ただ、どうか家族だけはお助けください」


 本来なら、死ぬのは黎基の方だ。その命を救おうとしてくれる桂成の望みなら、どんなことをしてでも叶えてやりたい。

 黎基が薬を飲んでも、飲まなくても、どちらにせよ桂成は殺される。このような形で巻き込まれたのが最後だ――。



 時が迫ると、宦官たちの監視が厳しく、自由に話せることがなくなった。

 そうして、当日。黎基は飲んだふりをしてやり過ごした。


 この時、幼いながらに知恵を働かせたのだ。

 この毒のせいで目が見えなくなったことにしようと。


 そうすれば廃太子となるだろうが、敵の勢力が衰えるか、自身が戦える力をつけるまではそうしてやり過ごそうと。

 無事であれば、また命を狙われる。廃太子となっても生きていればどうにか巻き返すことはできる。


 ――しかし、この時、黎基の知らない事実がひとつあった。

 母の不調の理由を、黎基は正しく知らなかった。もともとそれほど丈夫ではなかったから、疲れているのだと、それくらいに思っていた。


 母はこの時、懐妊していた。それを察知した一派が、なんとしてでも子を流してしまいたかったのだ。皇太子の母堂である。さらに男児でも産まれた日には、母の一族の力が増すのは必至なのだから。


 黎基に毒を盛れば、最も邪魔な皇太子を始末でき、その心痛で母は流産してしまう。一石二鳥を狙った策だ。

 そのことを知らなかった黎基は、駆けつけてくれた母に、


「目が見えません」


 ――そう、言ってしまった。

 母にというよりも、周囲に聞かせたかったのだが。

 母は泣き崩れ、敵の思惑通りに子を流してしまった。これは黎基が殺したようなものだ。


 だから、母にも本当は目が見えるのだとは言えない。母にまで嘘をつき続けるはめになったのは、生にしがみついた己の浅ましさからだろうか。



 結局、桂成の過失によるところとされ、刑が即座に執行された。三族もろとも処刑せよといきり立つ官人たちだったが、そのうちのいくらかは敵で、罪を被せた桂成に繋がる者を消し去りたかっただけだろう。


「蔡先生は仁人だった。家族のことをどれほど案じて逝ったことか。表向きは国外追放という体で、どこか小さなむらで静かに暮らさせてやってほしい」


 この時、黎基はまだ皇太子であった。少々の力はあったのだ。

 官人に命じ、蔡家の者たちを秘密裏に運ばせた。


 行き先は游群ゆうぐんあんむらが適当だろう。黎基はそれを決めると、宝飾品を集め、当座の金に換えて家族に与えるようにと指示した。

 それからというもの、蔡家には黎基の名を伏せてずっと生活に困らぬ程度の送金を重ねている。


 そんなもので償いと言ったら、蔡家の者たちは怒るだろう。

 父親を奪われたのだから当然だ。それでも、何もせずにはいられなかった。


 兄の晟伯せいはくは文官としてそばに置きたいような、穏やかで聡い少年だった。

 妹の祥華しょうかは癖毛を気にして恥じている、素朴で可愛らしい子だった。


 事実を知らない彼らは、もしかすると本当に父の過失だと信じているだろうか。

 だとするのなら、国外追放になるところを救ってくれたと、黎基に恩を感じていたりするのかもしれない。


 しかし、真実は違うのだ。

 黎基が、この目が見えることを告白しさえすれば、桂成は命まで奪われることはなかった。当人がそれを受け入れてくれたからといって、家族が納得したわけではないのだ。


 この目が見えることを蔡家の者たちが知れば、黎基を恨むようになるだろう。

 それも仕方のないことではある。だとしても、この命はやれない。


 このままでは国が傾く。それを正す力が黎基にあると言いきれるものではないが、今の父から民心は離れている。皇太子おとうとに代わった時、新帝は皇太后とその一族の傀儡となり、ほろびは加速する。

 悪政によって数多の民が死に絶える。国は消え去る。


 滅亡を食い止めるためにできることはそう多くはない。黎基がそれをしようと思うのは、少なくとも死んでほしくない人々がいるからだ。


 だから、今はまだ、生きる。

 誰に恨まれようとも――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る