21◇優しい声
必死で、ただ必死で、崖をどうやって下りたのかも覚えていない。
黎基の乗る輿が
輿を目がけて急ぎ、やっとの思いでその場に辿り着くと、輿丁たちが逃げ惑っていた。狼の群れに襲われていたのだ。
何が狼たちを刺激したのだろう。先に騎馬兵が通った時は何もなかったはずなのに。
輿は投げ出された時に破損したらしく、板が一部割れて、木片が剥き出しになっていた。帳も裂けている。中に黎基がいたら体を打ちつけて動けなくなっているかもしれない。下敷きになっていたら助からなかったところだ。挟まれていないようではある。
「で、殿下……」
ささやくように呼びかけた。気安く呼べる相手ではない。
そんな展可にも、血の匂いで狂った狼が襲いかかってきた。素早く体を斜にして避けると、飛びずさって剣を抜いた。
今まで、里に近づいてきた野犬を追い払ったことはある。しかし、犬と狼では雲泥の差だ。この至近距離で狼と戦った経験はない。
それでも、恐怖に勝る想いが展可を突き動かしていた。
タッ、と軽い足音を立てて踏み切ると、向かってくる狼に斬り込んだ。狼だろうと、黎基を傷つけるのなら展可の敵だ。手心は加えられない。黎基にはこれ以上苦しい思いをさせたくないのだ。
ただでさえ日が暮れてきたところだ。木が茂っていて、その僅かな明りも届きにくい。それでも展可は狼をなぎ倒しながら黎基を捜した。
――大丈夫、この軍で最も大事な人なのだ。将軍や兵が護っている。無事だと思いたい。
狼を恐れる人々が叫び、逃げ惑うせいで狼も興奮していた。これではいつまでも収まらない。
「落ち着け! 獣を煽るな!」
叫んでみたものの、誰も聞いていなかった。この場で、展可の存在はあまりに小さい。少々腕が立ったところで黎基の役に立てるほどではないのか。
その時、剣を振るう展可の視界の端にその姿が飛び込んできた。目の周りに薄い布を巻き、片膝を立てて息を潜めているのは、黎基だ。十年会っておらずとも、ひと目でわかる。戦だから親王にしては簡素な装いであるけれど、それでも間違いない。
目元を隠していても、端整な顔立ちがわかる。あの日からずっと、まみえることを夢見てきた人。
どれだけ詫びても赦されないとしても、それでも、無事な姿を見られただけでここに来た甲斐はあったのだ。
けれど、目の見えない廃太子という不遇な彼にも、狼は等しく襲いかかる。展可はこの時、叫んでいた。
「殿下っ!」
それはいつかと同じように。
あの日、小さな自分の手がつかめたのは、天河石の粒と土くれだけだった。
今度はそれではいけない。誰も黎基に気づいていないのだ。展可が間に合わなければ、誰も黎基を救えない。
思いきり手を伸ばした。後のことは何も考えなかった。
狼の牙が展可の肩に食い込む。鋭い切っ先が薄っぺらい肩を食いちぎってしまうのだとしても、それなら腕一本はあげるから黎基のことは助けてと願った。
腕を失くしても気を確かに持って、無事な方の手で戦わなくてはいけない。歯を食いしばるも、展可の意識は痛みと恐怖によって薄れた。こんな状況で、無防備な黎基を残して死ねない。
兄にも、必ず戻ると約束したのに。
途絶えていく思考の中、最後に思ったのは、声が聞きたかったということ――。
欲張りだと思う。
成長した黎基の姿を見られただけで十分なはずなのに、それ以上を願ってしまう。
それでも、声が聞きたかった。
大人になった黎基の声を耳に焼きつけて逝きたかった。
◆
夜空のような星屑が煌めく中、父が、母が、首を横に振っていた。
お前にはまだなすべきことがあるのだから、ここへ来てはいけないとばかりに。
これが夢だとおぼろげに感じるのなら、展可はまだ生きている。
起きなくては。起きて、黎基を護らなくては。
展可はその思いだけでまぶたを開いた。
「――あ、気づいた?」
拍子抜けするくらい軽い声で言ったのは、袁蓮だった。展可は、えっ、と声を上げて起き上がった。
その途端に激痛が肩に走った。呻いて身をよじった展可に、袁蓮は溜息をついてみせる。
「よかったわね、腕が残って」
「う、腕……」
それを言われてようやく、展可は自分の置かれている状況を呑み込んだ。
腕の傷は軽く処置をされているようだ。包帯を巻かれている感覚がある。着ている衣は展可のものではない。血で汚れたので誰かが貸してくれたのだろう。展可が寝かされているのは天幕の中らしく、その中に小さな手燭があって、それが袁蓮を照らしていた。
この天幕は負傷兵のために用意したものだろうか。四方が囲まれていて外が見えない。しかし、中には二人の他に誰もいなかった。
「あんた、あたしに感謝しなさいよ?」
「え? な、何?」
「怪我をしたあんたの手当てをするって、男たちにひん剥かれるところだったのよ? それをあたしが間に合って、同じ隊のあたしが面倒を見るっていって連れてきたんだから」
「それはすまない。助かった……」
展可は男ということになっている。それが女では、そもそも何者なのかと追及されてしまうのだ。それは避けたい。
やはり、今後はどんなことがあっても気を失ってはならないようだ。
「ちなみに、あんたをここ――麓まで運んだのは策瑛よ。その
「そうなのか」
策瑛は隊のまとめ役として、勝手に暴走した展可の尻拭いをしてくれたのだろうか。そう思うと申し訳ない。
「じゃあ、ここに少し水があるから、血を落として綺麗にしなさいよ。傷の手当はしたけど、そこまで丁寧に拭いてないから。腕が痛くてできないなら手伝うけど、動くでしょ? あたし、外で誰か来ないか見張っててあげるから」
「ありがとう、袁蓮」
変った娘だと思っていたけれど、機転が利く。知り合えてよかったのは展可の方だったかもしれない。
袁蓮は立ち上がると、去り際にポツリと言った。
「ねえ、展可。あんた、殿下を身を挺してお護りしたって言われてたわよ。だから、殿下があんたのこと気にされていたわ。殿下が
それを聞き、展可は不意に涙が零れそうになった。
昔から変わらない優しさがある。
黎基が展可のことを気にかけてくれた。それを聞けて、震えるほどに嬉しかった。
袁蓮が去り、展可は衣を脱いでこびりついた血を落とす。髪も解き、濯いだが、ここにある水は盥に一杯でしかなく、血の匂いが完全に取れることはなかった。胸に巻いたさらしも血を吸ってひどいが、これには替えがある。手荷物から替えのさらしを取り出し、血まみれのものを外した。その下に巻き込んであった守り袋は幸い、汚れていなくてほっとした。この中には黎基の天河石があるのだ。
サッと体を拭き、新しいさらしを巻く。鶴翼の衣を借りたままだが、仕方がない。帯を締め直して着た。
これだけの動きをするのに、やはり肩を負傷しているだけあって手間取った。苦痛ではあったけれど、甘えてばかりもいられない。
この天幕は多分、黎基を救ったことに対する褒美として貸されたのではないだろうか。だからといって、いつまでも休んでいていいわけではない。展可は一兵士でしかないのだから。
しかし、この時、見張りをしていると言った袁蓮が外で誰かと話す声が聞こえた。策瑛だろう。もしくは鶴翼か。
そう思った展可の予想は裏切られた。
それも、とんでもない形で。
「邪魔をする」
聞いたことのない声だった。それでも、凛とした気品があって、心地よく低い。若い、張りのある声だ。
心当たりはないけれど、おかしな人物なら袁蓮が入れないはずだ。
天幕を捲り、入ってきた影は大きかった。展可が驚いたのも当然だろう。それは、郭将軍であった。しかし、先ほどの声は郭将軍のものではない。
郭将軍は手狭な天幕に窮屈そうに入ると、外へ向けて手を差し伸べる。長い指を持つ白い手が現れ、その手の主が先ほど声をかけたのだと思えた。
優しい声だった。姿もきっと優しげなのだろう。
この時、展可は疲れもあってぼうっとしていて、郭将軍がそこまで礼を尽くして導く人物が一人しかいないことに思いを巡らせられなかった。
だから、黎基が現れた時、展可は息が止まるほどに驚いた。
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