19◆狼
「日が、暮れるな……」
よく揺れる輿の中で黎基はつぶやいていた。
輿には昭甫も同乗させている。昭甫は黎基の補佐であり、目の代わりでもあるのだから。
輿の中に差し込む光の加減で黎基は時刻を知る。
「山越えは思いのほか手間取っているようです。それにしても揺れすぎではありませんか? 酔いそうです」
本気で気分が悪いのか、昭甫はその後すぐに黙った。
確かに、よく揺れる。緩やかとはいえ、斜面の山道を行くのだから多少は仕方のないところだろう。
しかし、とある地点で輿は一度大きく揺れた。ゆったりと座っていることができず、黎基も体を滑らせて昭甫とぶつかった。昭甫が痛いとぼやいたが、痛いのはお互い様だ。
「お、狼だ! 狼の群れだっ!」
輿丁たちが叫んでいる。
しかし、先に進んだ兵たちは狼になど遭遇しなかったはずだ。見間違いではないのかと、黎基はまだ信じていなかった。
「雷絃殿は先に行ったのでしょうか? 異変に気づいたら引き返してくるでしょうけど、間に合いますかね?」
はぁ、と昭甫は嘆息した。この男はこんな時でも焦っているように感じられない。
「しかし、本当に狼の群れに遭遇しているのなら、輿丁が噛み殺されてしまう」
「民兵に担がせれば滞りなく行軍できますよ」
「馬鹿を言うな。糧車に食料があるだろう? それをやったところで狼は引かぬか?」
「狼は肉食ですから、穀類にどこまで食いつくかわかりませんが」
「……では、仕方がない。狼は一掃せよ」
こちらが狼たちの領域に大勢で踏み入ったのだ。狼が怒るのも当然ではある。
それでも、ただでさえ人が足らないところだから、狼にくれてやるわけにはいかない。見逃してくれないのなら、退けるしかない。
そう決意した黎基に、昭甫は呆れたように言った。
「この状況で私に仰られても……。雷絃殿が駆けつけてから仰ってください」
「それでは遅い」
「今の私は丸腰の文官です。武力をあてになさらないでください」
「わかった」
確かに、昭甫が出ていったところで狼の餌になるだけだ。いや、痩せて筋張った男の肉など食べてすらもらえないかもしれない。無駄に怪我をするだけか。
背に腹は代えられない。仕方なく黎基は腰に佩いている剣の柄に手をやった。昭甫が出るよりはいくらかましだ。
膝で立ち上がった黎基の袖を昭甫がつかむ。
「……おやめください。お一人でどうなさるおつもりで? しばらく輿の中でお待ちくださ――」
その時、輿丁の悲鳴と共に輿が傾いた。まずいと思ったが、膝を突いて踏ん張りが利かない。昭甫も同じだ。
「わあっ!」
声を上げて体を打ちつけていた。
さらに傾いた後、輿が放り出された。片側の輿丁が狼に襲われ、反対側の輿丁だけでは輿を支えきれなくなったのだろう。わかっていても、誰にも、どうすることもできなかった。
黎基は帳を突き抜け、輿から転がり落ちた。さすがに背中を打ちつけてすぐは息が詰まり、動けなかった。
やっと息ができた時には一気に空気が口から押し寄せるように感じられて、かえってむせてしまう。黎基がむせていても、狼たちは黎基を襲わなかった。
輿丁たちが悲鳴を上げて逃げ惑っているからだ。狼は逃げる者を追う。
あの者たちは自分たちがしでかしたことの重みを、今は考えられないだろう。己の命が大事だから、狼を前にして必死で己の命を護っている。親王の乗った輿を放り出したことさえ忘れている。
人の忠誠心などこんなものなのだ。平素は上辺だけ敬ってみせても、いざ危険が及べば黎基を切り捨てる。
身を挺してでも黎基を護ろうとするのは、多分雷絃くらいのもので、その雷絃はすぐに駆けつけられないらしい。
それなら、自らの力でここを切り抜けなくてはならないのだ。
甘えるな。誰も、救ってなどくれない。
天に必要とされているのならば、生き延びられるはずだ。
昭甫も放り出されてどこかに転がっているだろう。あれは自分でも言うように武力とは無縁だ。息を殺して潜んでいるような気がする。頭は回るが、こんな時にはどうすることもできない。
黎基は剣の柄を強く握った。片膝を立て、短く息を整える。
しかし、その時――。
まるで空から降るようにして、細身の体が黎基の前に舞い降りた。あまりにも軽やかに、跳ぶ。
まだ年若い兵だ。甲冑も何もつけていないところから、民兵だろう。長い髪をなびかせ、舞踏のようにして剣を操る。
相手は狼だ。言葉も通じず、情けもかけてはもらえない。華奢で、獣に向かっていく気概があるようには見えないのに、その兵は一歩も引かない。むしろ、飛びかかってくる狼の脚に斬りつけては退ける。
切り返しも早い。あれは鍛錬を続けているからこその技だ。
こうして黎基を救い、恩を売って取り立てられたいから、必死で戦うのだろう。野心があるのだ。男ならば名を上げたいと思うのは当然で、その野心も理解できる。それによって黎基が助かるのならまあいい。褒賞のひとつくらいはやる。
「落ち着け! 獣を煽るな!」
その民兵の声は高く、やはり若さを感じさせた。ただ、逃げ惑う輿丁たちは自分たちに向けられたものとは思っていないのかもしれない。下り坂を逃げていくから、足がもつれて転び、その上に狼が覆いかぶさった。
黎基が呆然としてしまうと、その突如現れた若い民兵が黎基の方を振り返った。
――思った以上に若い。
まだ少年だ。女のように優しい顔をした少年は、ハッと顔を強張らせた。
「殿下っ!!」
叫んだかと思うと、少年は黎基に向けて駆け出してきた。何故かその姿から目が離せず、見ていた。
すると、少年は思いきり手を伸ばし、黎基を突き飛ばすような動きを見せた。黎基はとっさに後ろに体を引く。その途端、一匹の狼が飛びかかってきた。黎基は後ろに引いて助かったものの、若い民兵は狼に肩口を噛まれた。
細い体だ、骨が砕かれてしまう。驚いたことに、若い民兵は顔を痛みに歪めたが、悲鳴のひとつも上げなかった。痛いばかりか恐ろしいはずなのに、それでも黎基を気遣うような目を向けた。
黎基は剣を抜き放ち、民兵に食らいつく狼の首筋を斬った。硬い手ごたえが手の平にあり、獣とはいえ、肉を斬る感覚は生々しい。
血飛沫が跳ね、流れた血が、民兵を濡らす。狼の牙が緩んだ時、その民兵も気が抜けたのか、その場に倒れ込んだ。
ハァ、ハァ、と黎基は荒く息をしながら倒れた民兵の首に触れる。脈はあった。気を失っただけだ。
そこでようやく昭甫が駆けつけてきた。
「郭将軍もやっと来ました! 民兵の小隊も駆けつけたようで、なんとか狼は駆逐できたかと――」
汗を流しながら言った昭甫は、黎基が手にしている剣と、倒れている少年と狼を見て動きを止めた。
「えっと……」
「この子供が助けてくれた。手当をしてやってくれ」
「……この狼は殿下が?」
黎基は嘆息することで答えた。昭甫は後ろを振り返り、皆がこちらに注目していないのを確かめると、黎基の手から剣をもぎ取った。
「見えてるの、覚られますよ?」
「この場合、仕方がなかった」
「まあ、そうですけど……」
目の周りに巻いた紗の布は、とっさの時の目の動きを隠してくれる。これがないと、普段は目を瞑ってやり過ごせても、いきなり襲われたりすれば、やはり目を開けてしまう恐れがある。念のために目元を隠しているのだ。
この薄い布は、黎基の目の動きをごまかしてくれるが、着けていてもこちら側からは問題なく見える。毎日が夜間のように薄い闇が被さって見えても、すでにそれにも慣れた。この布を通して十年間、世界を見ていたのだから。
黎基は九歳の時、目の光を失ったことになっている。
しかし、それは表向きのことである。
本当は、目が見えなくなったという事実はない。それを十年偽ってきたのは、そうしなければ生きられなかったからだ。
幼い黎基は、このままでは近いうちに殺されるということを覚った。生きる道は、廃太子となること。王位継承から外れれば、急に殺される可能性は低くなる。そのために失明したと装ってきたのだ。
この秘密を知るのは、昭甫と雷絃だけである。母も知らない。
今はまだ、世間に知られるわけにはいかない秘密である。
「助かりますかね? すごい出血です」
昭甫が淡々と言った。本気で出血がひどいと思うならもっと焦るところだろうに。
「ほとんどが狼の血だ。ただし、肩を噛まれている」
「狼のですか。うぅん、私にまで血がつきますね。着物脱がせましょうか」
自分の服が汚れるから担ぎたくないとか、ひどい男である。もういっそ黎基が担いでやろうかと思った。
すると、少年の血を浴びた着物の襟を広げた昭甫は、一度手を止めて零基を見上げた。
「おや、少年かと思ったら、少女でした」
「は?」
思わず、開いた着物の下を見てしまった。胸元に巻かれたさらしが血に染まっている。押さえつけた胸のふくらみを見て、黎基は声を上げそうになったが、それをすんでで呑み込んだ。慌てて目を逸らすと、昭甫がニヤニヤとしていた。
何か言い返してやろうとしたところで雷絃が自分を捜す声が聞こえた。
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