18◇弟山
軍はこのまま北上する。
筝河の上流へ向けて進軍し、それからひと晩休んだ。
寝床はというと、辛うじて薄汚れた布の屋根がある天幕が張られ、そこに雑魚寝する形であるのだが、展可の隣には袁蓮が来た。
「だって、一番安全なのってここじゃない」
あっさりと言うが、おかげで他の人に恨まれた。その展可の逆隣りには鶴翼がいて、誰よりも早く眠っていた。展可自身、膂力では勝てないような男のそばで寝るよりはましなのだが。
見た目だけは可憐な袁蓮のそばにいると、展可は女には見えないのか。疑われることなく男扱いされている。
複雑ではあるが、安心すべきところではあるのかもしれない。
疲れていたせいか、思った以上によく眠れた。ただ、夢には立派に成長した黎基が出てきた。
十年も会っていないくせをして、明確に姿を想像できるのが不思議だったけれど、夢の中ではそれを変だとは思わなかったのだ。
よく来てくれたと直々に声をかけられ、有頂天になっていたところで目が覚めた。
――朝靄の匂いが抜けきらない早朝から、行軍は再開される。
このまま北上を続け、国境を越えて武真国に入るのだが、そこに辿り着く前にひとつ山を越えなくてはならない。
黎基は
とにかく、この弟山を越えてゆかねばならないのだが、黎基の輿は軍の中央を行くとのことだ。まず、郭将軍を含む騎馬兵の半数が先を行き、その後に民兵の半分。黎基を挟んで残りの民兵。
展可はというと、後半の民兵――黎基が載る輿の後ろに続く形になる。とはいっても、それほど近いわけではない。口に出して言うのではないが、民兵の中に胡乱な者がいないとも限らないのだ。危害を加えられぬ程度には離されている。
部隊編成の時、まとめ役に人柄をも考慮したのは、親王である黎基に従順な兵が求められるからだろう。単に武力だけを見て上に据えれば統率が利かなくなる恐れがある。
展可は林くらいならば潜ったことはあっても、山に登るのは初めてである。兄は昔、父に連れられて、薬草採取に出かけたりはしていたから、幼かった展可よりは世間も広いのだが、展可は世間知らずのままと言えるのかもしれない。
紅葉しかけた木々の間から空が見える。鳥たちは異変を感じるのか、飛び立っていくばかりだった。普段から人通りはあまりないようで、足場は悪く、草が伸びていたが、先を行った兵たちが踏んでいるので展可たちが歩く頃には楽なものだった。
輿丁が草に滑って黎基の乗る輿を放り投げてしまわないかを心配した展可だったが、それを誰かに言ったら大笑いされるだろう。そんなことをしでかしたら首が飛ぶのだから、皆、細心の注意を払っているはずだと。
展可がきょろきょろと辺りを見回していると、前を歩いていた鶴翼が急に振り返った。
「弟山ってのはね、『低い山』って意味だったんだよ。それでテイザン。そこに弟って字を当てたのは、反対にある渓谷を『
幼い顔立ちでにこりと笑っている。
しかし、顔に見合わず博識なようだ。展可の隣の袁蓮は面倒くさそうな顔をした。
「こんなところに来てまで勉強とかしたくないわ」
展可は思わず苦笑した。
なんとなく、兄を思い出す。兄もまた、急に小難しいことを言い出してよく展可を困らせていた。わかってほしいのではなく、口に出して頭を整理していたのかもしれないが、展可からしてみれば、同じ目線で語り合えない自分で申し訳ないような気分になったのだ。
「鶴翼、詳しいんだね。将来は文官になるの?」
人手がなく、渋々従軍させられたのだろうけれど、本来であれば静かに本を読み、詩作に耽っているような性質なのだろう。
「うぅん、何かしなくちゃいけないのなら、そうかも」
ふんわりとした返答が返ってきた。気の向くまま、流れるまま、鶴翼はそういう青年らしい。
「こら、喋ってるとつまずくぞ」
後ろの方から策瑛に注意された。鶴翼は肩をすくめて前を向く。
しかし、空は晴れ渡っていてのどかなものだった。戦に向かうとは思えない、遊興に来たかのような気楽さである。
国を出て、武真国へ踏み入ってからが本番なのだ。
皆がそう思っていたに違いない。まったく気の緩みがなかったとは言えない。
この弟山、高い山でこそないが、正面から見ただけでは測れないほど広かった。日が暮れる前には山を越えてしまうつもりであっただろうが、足場も悪いことから行軍は難航した。距離を保っていたはずが、徐々に前の集団が展可たちからも見えるほどだった。
夕暮れのこの時、山の中腹を越え、下りに入っていた。だから、展可たちが上から黎基の乗る輿を見下ろすような形になる。
展可はハラハラしていた。人が担ぐのだから疲れもあるだろうけれど、随分揺れているように見えたのだ。輿はああいうもので、黎基は慣れているのかもしれないけれど。
「遅れているみたいだ」
山道の縁で身を乗り出すように下を眺めながら鶴翼がつぶやく。
「お偉い方はいいわよね。輿に乗っていれば運んでもらえるんだもの。こんなにか弱いあたしでも、自力で山を越えてるのに」
ため息交じりに袁蓮は不敬なことを言う。
悪意はない。それがわかっていても、展可は黙っていられなかった。
「殿下は御目を患われている。そういう言い方をするものじゃない」
「目が悪くたって、貧乏人なら歩いてたわよ」
機嫌が悪いのは、疲れたからだろう。袁蓮の言葉には棘がある。
「輿に乗れたからといって、楽をしているのとは違う。あれだけの重責を背負っておられるんだ。私たち兵がそれを知らず、そんなふうに言うのではあまりに――」
失明して、それで皇太子の位から退けられた廃太子だと、民兵までもが黎基を侮る。それはあんまりなことだ。
展可が切に訴えかけても、袁蓮は鬱陶しそうに、はいはい、と受け流しただけだった。
「展可って、忠誠心に溢れているのね。きっと出世するわ」
などと皮肉を言ってくる始末だ。鶴翼はきょとんとしていた。
展可は会話が不毛だとばかりに空を見上げた。周囲が赤く染まったと思ったら、すでにそれさえも過ぎ去るところなのだ。下山まではまだ少しかかるだろう。
いよいよ日が沈みかける。暗くなってしまえばさらに歩きにくくなるのだ。それを感じるからこそ、皆が苛立っているのかもしれない。
――そんな中で異変は起こった。
黎基の乗る輿を担ぐ輿丁たちが声を上げた。それは悲鳴である。
展可はハッとして道の縁に膝を突き、身を低くして少しでも下の状況を知ろうとした。ここから見えるのは、獣の背である。獣の群れが輿丁たちの行く手を阻む。
それを見た瞬間から、展可は一も二もなく飛び出していた。
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