17◆健やかに
この軍勢が集った
慣れぬ行軍ではあるものの、普段の暮らしからして気を抜けたものではなかったのだ。常に身辺には気を遣ってきた。
むしろここへ来て監視の目が減っていると思えば楽なものかもしれないとさえ思えた。
今ここの天幕には黎基一人ではなく、側近の
「殿下、雷絃にございます」
「入れ」
黎基は立ち上がることなく短く答える。人一倍聴覚の鋭い黎基には、天幕を通して喧騒が聞こえていた。
「はっ」
雷絃は畏まって答え、天幕の隙間を抜けて現れた。黎基は薄暗い天幕の中でふと口元を和らげてみせる。
「編成は終わったか?」
「はい、どうにか形になるかという程度ですが、そこそこに光る者もおりました」
「ほぅ。雷絃殿がそうお感じになったのなら、先が楽しみなことですな」
と、昭甫も意外そうに眉を跳ね上げた。この男の場合は単なる皮肉かもしれないが。
「これから出立を前に士気を高めるため、兵に声をかけて参ります」
雷絃がそう切り出し、黎基はうなずいて返した。
「本来であれば私が行うべきなのだろうが、昭甫の介添えなくして台の上に上がることもできぬのでな、それでは兵に侮られるだろう。雷絃、頼めるか?」
「はっ、お任せください」
雷絃が去ると、昭甫は脚を組み、膝の上に肘を載せて頬杖を突いた。主の前でする恰好ではないが、そうした仕草に人柄が表れているとも言える。
「……時に、殿下。
声を潜め、それを言った。黎基の眉がぴくりと動く。それを動揺だと知ってからかっているのだ。
「会えるわけがない。わかっていて言うな」
「ですが、どうしているのかくらいはお知りになりたいのではないですか?」
わぁ、と外で歓声が上がる。雷絃の言葉に民兵が応える声だ。
明るく、まるで前途が光に満ちているように錯覚する。だが、この先に待つものを彼らは知らない。
黎基はその騒がしさの中、ぽつりと言った。
「無事に生きて、健やかに暮らしている。それさえわかっていれば十分だ」
「お会いしてもいないのに、健やかかどうかなどわかるのでしょうか。それが殿下の願望でなければよいのですが」
嫌な男だと、黎基はしみじみ思った。むしろ、毎日のように思っている。
ただ、昭甫の言うことが正しい場合もあるから腹が立つだけだ。
健やかに暮らしている。そうであってほしい。それは間違いなく黎基の願望であるのだから。
もし、会うことがあるとすれば、それは戦を終え、すべてが治まってからのこと。
ただし、その時、黎基が再会を選ぶとしたらの話である。
「ああ、それと、若い娘が従軍しているそうなのです。兵たちには手を出すなと釘を刺しましたが、殿下がお望みでしたら召しましょうか?」
「…………」
「今後のために、この行軍中に一人二人孕ませておいてもよいかと」
「…………」
「気が乗りませんか? 大層美しい娘だそうですよ」
「…………」
「おや、もちろん冗談でございますよ?」
クク、と薄く笑う。
これで有能でなければ馬の餌にしてやりたい。
時々、己は人選を誤ったのではないかと黎基は思うのだった。
◆
「静かに! 将軍からのお言葉がある」
武官たちがざわつく民兵を静めた。展可はその場で直立する。
将軍からの言葉ということは、黎基はやはり出てこないのか。行軍元帥とはいえ、易々と姿を現すことはないらしい。
目が不自由なのだから仕方がないのだと理解しつつも、どこかで落胆している自分を展可は愚かだと思う。
むしろ、皆は威風堂々と現れた将軍に感嘆のため息を漏らしていた。
郭将軍は、背が高いばかりでなく、筋骨逞しく、さらに小礼(鉄板)を繋いだ鎧を着込んでいる。
見栄えがするのだ。このような武人が目の前に立ちはだかったら、敵兵は臆するだろう。
この立派な武人が黎基を護っている。そう思うと展可は郭将軍を好ましく感じるのだった。展可のすべての基準はそこにある。
「皆の者、此度の戦によくぞ集まってくれた。親王殿下のお言葉をお伝えする。――我が国の北、
戦は非日常である。
だからこそ、法が及ばず悪事が行われることがある。軍が通り過ぎた後の
しかし、黎基はそれをよしとしないという。
郭将軍の言葉を聞き、展可はほっとした。
少年の頃から黎基は正しく、優しかった。苦境に苦しんだ今となっても、その心は健在なのだ。
気を抜くと涙が零れそうになる。やはり、どんなことをしてでも黎基を護りたい。役に立ちたい。
展可は強くそう願った。
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