10◇展可の従軍
その晩、祥華は気が昂ってなかなか寝つけなかった。明け方になってようやく眠った。
そうして、翌朝になって身支度を整えていると、家に慌ただしく駆け込んでくる女の足音がした。
「晟伯先生……っ」
その声は、展可のひとつ年下の妹、
祥華も声がした方へ急ぐ。
すると、桃児のそばに兄がいて、桃児は兄の袍の袖口をつかんでいた。いつもは落ち着いているのに、いつになく感情的に見えた。
「桃児、どうかした?」
祥華が声をかけると、桃児はハッとして振り向いた。目の縁が赤い。
桃児は祥華の顔を見るなり、さらにくしゃりと顔を歪めた。みるみるうちに目に涙を浮かべる。
「展可兄さんが徴兵されることになったの」
「えっ」
それは間違いなく、黎基の軍にだ。あの展可が。足を引っ張らないだろうかと不安しかない。
しかし、黎基のそばへ行けるのだ。羨ましいと言ったら展可は嫌がるだろうか。
それで桃児は不安で堪らないらしい。
「兄さんに兵役なんて無理だわ。まず生き残れないし、軍では苛められるし、わかりきってて行きたくないって泣いているの。あの分だと逃亡するかもしれないわ。でも、そんなことをしたらどんなお咎めがあるか……」
どんなお咎めがあろうとも、そんなことまで考える展可ではない。突発的に、本能の赴くままに逃げ出すだろう。
兄も頭が痛むような仕草をした。
「俺が代われたらいいんだが……」
代わったところで、兄もそんなに役に立たない。怪我人の治療ができる分だけ展可よりはましだろうか。
それを聞くなり、桃児は兄の袖をさらに強くつかんだ。
「い、いいえ! そんなつもりで言ったんじゃないんです、ごめんなさい! 晟伯先生が行ってしまわれたら、わたしもどうしていいか……」
桃児は働き者で、薬草を摘んだり兄の手伝いをよくしてくれる。そればかりではなく、何かと差し入れをしてくれたりと気が利く。
祥華は机の上の梨を眺め、なんとなく納得した。
「私が説得してくる。桃児、一緒に来て」
祥華が一人で行かないのは、一人で行ったら家人に嫌な顔をされるからだ。十年経っても、祥華たちが得体の知れない余所者であることに変わりはないらしく、特に展可の母親は露骨だった。
間違っても展可の嫁になりたいわけではないから、嫌われていても構わないのだが。
「うん……」
桃児がしょげたようにしてうなずいた。
説得して展可が行く気になっても嬉しくないのだろう。だからといって、逃げられても困るのだから心中は複雑である。
展可の家は小川を挟んで向こうにある。祥華と桃児が橋桁を踏み越えて川向うに着くと、桃児はため息交じりに零した。
「父さんもまだ戻らないし、母さんもすっかり消沈して泣いてばかりよ。兄さんがもう少ししっかりしてくれていたら、戦だってきっと武功を立てて帰ってきてくれるって送り出せたのに」
「そうだね……」
祥華はどう答えていいのか困り、ただ相槌を打った。祥華はやや背が高く、桃児は低いのでうつむくと視線は合わない。
「晟伯先生や祥華さんみたいな兄さんだったらよかったのに」
「うちの兄さんだって武術はからっきしだけど」
ハハ、と祥華が軽く笑うと、桃児はやっと顔を上げた。むしろ、目がきらきらと輝いて見える。
「それでも、里の皆の病気を治してくれる立派な方だわ。どんな時でも謙虚で、穏やかで、わたしみたいな小娘の言うことにも真剣に耳を傾けてくれるし、わたし――」
恋する乙女の目である。兄も隅に置けない。
祥華はくすぐったいような気分で苦笑した。
「うん、ありがとう。展可は家の中?」
「そう。誰も寄せつけないで部屋に籠っているわ」
家に着くと、下女が一人で迎え入れてくれた。その下女に桃児は言う。
「母さんに、来客はわたしの友人だってすぐに伝えて。兄さんを連れに来たんだって勘違いしたら大変だから」
下女が下がると、桃児は祥華を奥へ案内した。戸の前で立ち止まると、声をかける。
「兄さん、祥華さんが来たわ。ここを開けて頂戴」
祥華も戸に向かって話しかける。
「展可、開けて」
すると、中でごそごそと蠢く音がして、戸が開いた。隙間から顔を覗かせた展可は、泣き腫らしたひどい顔をしていた。
「祥華ぁ」
腫れぼったい目が祥華に向く。祥華は複雑な心境で部屋の中へ押し入った。
展可の部屋はそこそこに広く、祥華たちの家よりもずっと立派だ。
「展可、話は桃児から聞いた。従軍するんだって?」
いきなり本題に入ると、展可は目から滝のような涙を零した。まだそんなに泣けるのかと、桃児が呆れている。
「そ、そんなの、俺には無理だって、お前もわかるだろ? なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだよっ!」
幼子のように泣く展可だが、祥華は少しも気の毒には思わない。
目が見えず、それでいて行軍総帥という重荷を背負わされて戦地へ送られる黎基のことを思えば、五体満足で弱音を吐いている展可を憐れむ気持ちなど湧いてこない。
「展可、親王殿下は盲目であらせられるの。それでも戦地に赴かれる殿下をお護りし、国のために戦えるなんて栄誉なことだと思わない?」
祥華がそう諭すと、展可はさらに泣いた。
「栄誉って、そんなの、生きてりゃの話だろ。死んだら称えられたって嬉しくないし!」
「じゃあ、出発までの間に特訓しよう。私もつき合うから」
だから、どうか自分に代わって黎基を護ってほしい。
そんな祥華の願いは勝手だったのかもしれない。展可はかぶりを振った。
「たった数日でお前みたいになるわけないだろ!」
だから、日々真面目に武術の稽古に励めと言ったのに。
そんなやり取りを横で聞いていた桃児は、急に展可の足を踏みつけた。ギャッと展可が叫ぶ。
「何よ、兄さん、じゃあ逃げる勇気はあるの? 逃げて、わたしたち家族や里の人を犠牲にして、一人で生きていける気力はあるの? もう兄さんの名で申告されてしまったのよ。今、『
「じゃあ、お前は里のために俺が犠牲になればいいってのか? お前みたいに薄情な妹のために、なんで俺が――」
無益な言い争いで互いがズタズタになるばかりだ。
家族はいつまでも一緒にはいられない。祥華の家のように、いつ四散してしまうとも知れないものなのだ。だからこそ、むやみに傷つけあうのは虚しい。
祥華は二人の間に入った。
「展可、私も代われるものなら代わってあげたい。私が行けたらよかったんだ。でも、それができないから……」
本当に、祥華は切実に代わってやりたいと思う。この言葉に偽りはない。
ただしそれは展可のためではない。黎基のためにだ。
祥華の心からの言葉に、展可は感じ入っているようだった。
「祥華、そんなにも俺のことを……」
桃児は戸惑いつつ二人を見比べていた。この時、展可がポン、と手を打った。
「なあ、祥華が行けば俺は行かなくても済むんだよな?」
「はぁあ?」
晟伯に見せる淑やかな面が幻のようにして、桃児は素っ頓狂な声を上げた。その上、不甲斐ない兄の胸倉をつかんでガクガクと揺さぶる。
「本当にいい加減にして。女の子相手に、自分に代わって従軍しろとかクズすぎる」
「だ、だだ、だって、祥華は強いし、今回に限っては女も可だっていうし……」
「このクズ!」
「うぅ……」
妹に締め上げられ、展可は目を回した。
そんな二人のやり取りを見ていて、祥華はハッとした。
もし、本当にそれが叶うのなら――。
「展可、じゃあ私が代わりに行ってもいい?」
「へ?」
「
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