9◇徴兵

 以前、この里に役人が勅旨を持ってやってきたのは、東の群に離宮を建設するにあたっての人員確保のためであった。運河を伝い、京師みやこと繋がるように建てるとのことで、工事は大掛かりなものとなっている。


 十五から五十歳までの健康な男を里から最低二十名出すようにとのことであった。この労役を務めぬ集落には相応の課税があると同時に、里長とその一族が罰として罪人扱いで連行されるとの厳しい内容であった。


 里長は必死で人を集めた。この時、展可てんか少年は十五に満たず事なきを得たのだが、代わりに展可の父親が引っ張られた。その時に連れられていった男たちは、二年経つが未だ故郷へは帰らない。


 この時、立派に成人していた祥華の兄、晟伯せいはくだが、労役に参加させられることはなかった。

 里長は、さい家の兄妹を里の外へ出してはならないと言いつけられているらしい。だから、他の里人が何故だと問い質す中、晟伯は医者だからいなくては困ると説いていた。


 新たな離宮を望むのは、現皇太子の母堂であるしん貴妃だという話だ。奢侈を好む女人だが、皇帝は貴妃の望みは余程のことでない限り叶えるという。


 しかし、それで男手が減り、農作物を作るにも女たちは苦労が多い。いずれ食料不足になったとしても、あの貴妃ならば他国から奪えばいいとでも言い出しそうだ。

 本当に、同じ位に立ちながらも、宝貴妃とはまるで違うと思いながらも、祥華は胸の奥にしまい込むしかなかった。


 役人がやってきた時、また土木工事の人員を増やせというのかと、祥華は呆れと怒りの入り混じった感情を抱えた。

 ただし、そうではなかったのだ。今回のことに土木工事は関係なかった。

 もしかすると、傍から見ればもっとひどいことであったかもしれない。


 それでも、祥華からしてみれば、それは涙が零れそうなほどに懐かしい名との再会であった。

 皆、高札を眺めつつざわめく。


「戦なのか――」

「い、いや、援軍要請だって。うちに攻め入られたわけじゃないよ」

「でも、これはあんまりな……」


 思わず口にした里人が役人に睨まれて口をつぐむ。

 あんまりだと言われるほどの内容ではあった。


 何せ、従軍に参加する兵を集めているのだ。この里からは十名。

 十五から六十歳までの健康な者。男女問わず。


 ――労役でさえ男子に限るのに、従軍する兵役が男女問わずなどということは前代未聞である。

 皆が唖然としたのも無理からぬことだ。


 ただ、祥華が震えたのは、その行軍元帥が黎基であるという、ただその一点のみである。

 盲目の親王、黎基を戦に駆り出すとは、一体どういうことなのか。

 形ばかりの、頭数さえそろえればそれでいいという行軍なのか。


 そうだとしても、目の見えぬ黎基が不自由をするのは間違いない。それを容易く行ってこいと申しつける皇帝の無情さにも悲しくなる。

 しかし――。


 黎基の役に立ちたい。今度こそ護りたい。

 祥華はその思いだけで胸が張り裂けそうだった。


 触れの内容にこんはくが分かたれたような展可を放って、祥華は家に駆け戻った。足がもつれるほど気が昂る。

 母が死んだ日から、祥華の心がこんなにも動いたことはなかった。


 家の戸を勢いよく開ける。だが、そこは無人で、食卓の上に籠盛りの梨の実が置かれているだけだった。


「兄さんっ!」


 兄は奥の部屋だった。祥華はさらに急いで兄の部屋の戸を開けた。


「兄さん、聞いて!」


 すると、机に乾燥させた薬草を広げていた兄は顔を顰めた。祥華が起こした風で危うく薬草が飛んでいきそうになったのだ。

 兄は薬草を直しながら呆れた様子で嘆息する。


「祥華、お前がそんなに騒ぐのは珍しいが、少し落ち着いて話してくれるか?」

「ご、ごめんなさい」


 背は高いが、武とは無縁の兄だ。自分が女としては逞しく育ってしまったことを棚に上げて、祥華は兄をそう評している。


 二十五歳になるが嫁をもらおうとしないのは、この家に娘をやりたくない親が多いせいだろう。兄の人柄のせいではなく、蔡家の兄妹が何かを抱えているのがわかるから、そこへ踏み入りたくないのだ。

 兄もまた、誰も関わらせたくないようで、穏やかに見えつつもすぐに壁を築くところがある。


 祥華は、徴兵のことを兄に告げた。

 兄は、スッと目を細めただけですぐには口を開かなかった。

 ため息と共に発せられたのは、苦りきった言葉だった。


「お前が騒がしくする時は決まって殿下が絡んでいるから、嫌な予感がしたよ」

「そう?」


 悲しい思いもたくさんして、昔ほど無邪気には戻れなくなった。十を超える頃にはすっかり、祥華は年頃の娘のようにしては笑わなかった。年よりも落ち着いていると言われることが多い。

 ただし、黎基が絡むことに関してだけは熱くなってしまう。


 以前、里の男たちが廃太子になった黎基のことを嘲るような発言をした。祥華はすかさず、武術の稽古にかこつけてこの男たちを叩きのめしたのだ。

 男たちは祥華の不機嫌のわけがわからないながらに、逆らってはいけないと思ったようだった。


 うら若い娘にこてんぱんにやられてしまったと公言できるはずもなく、子細を知っているのは傷の手当てをした晟伯のみである。


「それで、お前は従軍したいと、そう言うんだな?」

「うん。父さんがしたことの償いになるとは思わないけど、それでも私はいつか殿下のお役に立ちたいってずっと願っていたから、これはまたとない好機だ」


 すると、兄は眉根を寄せ、額に手を当てた。サラリと髪が揺れる。


「確かに今のお前は一騎当千の腕になったかもしれない。兵力としてお役に立てるだろう」

「じゃあ――」

「けどな、俺たちは生きながらにして死人のようなものだ。俺たちは表向きはこの国に存在しちゃいけない。いないものとして殿下が助けてくださったんだ。死人がこの里から出るゆるしはない」


 こんな時でさえそれを言うのか。

 兵力が要るのなら、そんな細かいことには目を瞑ってくれないものだろうか。


 ――わかっている。それができるのなら苦労はない。

 兄妹の存在がおおやけになると、黎基がせっかく助けてくれたというのに、下手をすれば結果として兄妹の命を奪わねばならなくなるかもしれない。黎基の温情を無にし、その立場を一層悪くする恐れもある。


 それでも、黎基のために何かがしたい。何もできない自分がもどかしい。

 祥華は言い返すこともできず、無言でいた。言葉の代わりに無念が涙になって滲む。


 理性と感情がせめぎ合い、心が血を流すように痛んだ。

 そんな祥華の手を取り、兄は言う。


「お前が常に殿下の御身を案じているのは知ってる。でも、駄目なんだ。俺たちは外へは行けない。里の外と関わりを持ってはいけないんだ」


 兄はたった一人の肉親で、祥華にとって一番の理解者だ。祥華がどれほど強い想いでいるのか、わかっていてる。祥華は肩口で涙を拭った。


「殿下はこれから戦に出られて、危険な目にお遭いするかもしれないのに、何もできないなんて……」

「俺も、殿下の御目のために効き目のある薬や治療法を探したいと思ってきた。でも、探し出せたとしても、それを届けられるかはわからない。俺たちはものの数にも入らないちっぽけな存在だから」


 兄妹が黎基のためにできることは、この離れた地から無事を祈るだけのことなのかもしれない。

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